おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

「漁り火の思い出」 2

 夏の夜。津軽海峡には、イカ漁の漁船に灯されたライトが明るい光の列となって、横一列に並ぶのです。その明かりを「漁り火」と言います。

 

 私の村には、村に一軒だけの「床屋さん」がありまして、子どもや男性はほとんどがそのお店を利用していたかと思います。ある日、母がその床屋さんで仕入れてきた情報を教えてくれました。

 「床屋さんに来る漁師の人達、みんな耳がヤケドで大変だって。今のライトはあんまり強くて、耳がそうなるんだって。」

 いつ頃からイカを集めるためのライトが、白く強い光に変わったのかは記憶していません。でも、大昔、私が小学生だった頃の漁り火は、確かにもっとぼんやりとしたオレンジ色だった覚えがあります。それがあるとき。技術の進歩なのでしょう。より強力な光を出す集魚灯が発売され、漁師はこぞってその新型の明かりに切り替えたのでした。本当は、不漁続きで、どこもそんな余裕などなかったのでしょうが、死活問題だったようです。次の様な話も覚えています。やはり母から聞いたのだと思います。

 「新しい明かりは凄くて、イカもやっぱり明るい方に行きたいからみんなそっちに行ってしまって、古い明かりの船は全然捕れなくなってしまうらしい」

 そうして、身を切るようにして新型の設備に切り替え、その明かりは白く眩しく輝いて、その分、発する熱もまた凄くて・・・。

 今はどうなんでしょう?集魚灯もLEDの時代ですかね。昨日の拙ブログで、石油ショックにも触れましたが、イカ釣り船は燃料として大量に重油を消費します。石油製品の大幅な値上がりは漁師にとって大打撃だったのです。イカ釣り船で使われる重油のうち、およそ半分は集魚灯の燃料だと昔聞いたことがあります。LEDの登場によって、燃料代が安く済むようになっていたらと、漁師の子でもないのに願ってしまうのは、やはり「故郷」というものに対する思い入れなのでしょう。

 それにしても、仕事はどんな仕事も大変でしょうが、設備投資に莫大な費用を要するという点では、商売人は勤め人とはまた違った大変さがあるようです。

 

 夏の午後。日盛りを過ぎた頃から、イカ釣り船が出航し始めます。私の家からはその様子がよく見えたので、良く母が冗談口調で「頑張れ、頑張れ」と声に出して言っていました。

 出航してから4時間、5時間たち、日が落ちて海が真っ暗になると、イカ釣り船に明かりがともり、漁が始まります。朝まで続くイカ漁の間、船の上では全員総出の大格闘が行われているのでしょうが、陸から見える漁り火は静かにゆったりと光を届けてくるだけです。どうか、大漁でありますように。口には出さなくても、漁師町で生まれ育った者の思うことは一つです。

 

 「おはようございます」

 夏から秋の間、朝早くに玄関で声がするのは、近所や親戚の漁師の家から、お裾分けのイカが届けられるときです。朝、港に戻った漁師達は、帰宅する際に、自家消費用として、1箱といった単位でイカを持ち帰ります。その中から漁師ではない知り合いの家にお裾分けしてくれるのですが、なんと言っても新鮮さが命であり、また、私の故郷では「イカ刺し」は朝に食べるというのが習わしでしたので、早朝の来客となるのでした。また、夏休みなどには、寝ている私が母に起こされ、お遣いにやられることもありました。

 「〇〇さんのところでイカくれるから。取りに行って来て」

そう言って起こされて、顔も洗わず、ボウルを手に夏の朝の道を寝ぼけ顔で親戚の家に向かったものでした。

 そして、朝食。故郷のイカ刺しは、お皿に山盛りにとって、生姜か大根おろしを添え、醤油を直接かけてかき混ぜ、ズズッと、かっ込むようにして食べるというのが一般的な作法(?)でした。白く透き通って、パキパキとしたイカ刺しの感触、懐かしいです。そして、残ったイカ刺しで作る、イカ100パーセントのかき揚げの美味しさ。

 やばい!これ以上書くと、ちょっと食欲を持て余してしまいそうです。今、私はダイエット中でもあり、この辺にしておきたいと思います。

 

 夜の地球の衛星写真から、懐かしい「漁り火」の話を書き始めたところ、自分でも思いがけないほどいろいろな思い出が、意識の深い底から浮かんできて、びっくりしています。さながら「漁り火」に集まるイカのごとしです。私の思い出話、いかがだったでしょうか?

 長い話にお付き合い下さり、ありがとうございました。では。