おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

「漁り火(いさりび)」の思い出 1

 少し前に、テレビの番組だったかニュースだったかで、夜の地球の衛星写真を見ました。世界の大都市が煌々と輝き、砂漠や高山や海は真っ黒に沈黙しているという、誰でも目にしたことのある写真です。

 

 この「夜の地球」の写真を私が初めて見た、あるいは初めて見たと記憶しているのは、中学生の時だったと思います。学校の教材で見たのだと思います。

 日本列島は、東京や大阪や名古屋といった、大都市が明るく光を放っているのはもちろんですが、海岸線に沿って列島の輪郭をなぞるように光が連なっていて、「日本は紛れもなく先進国なのだ」と実感したものでした。

 そして、最初に書いたように、都市部以外は真っ暗なはずの夜の地球で、例外が二カ所あったのも不思議と覚えています。一カ所は中東の砂漠。油田地帯で天然ガスが燃えている炎が、明るさの正体でした。

 そして、もう一カ所が日本海。しかも驚くべき事にその正体は、イカ釣り船の漁り火だったのです。夜の日本海にひとかたまりとなっている「漁り火」は、一際明るい光の集合体として写っているのでした。

 

 故郷の町は「イカ漁」が盛んで、夏から秋にかけてが漁のピークで、生家から見える津軽海峡には、夜ごと漁り火が光の列となって輝いていました。

 町はイカ漁の好・不調によって、全体の景気・不景気が大きく左右されました。私が小学生だった昭和40年代半ばまでは、町も田舎とは言えそれなりに活気もあったのですが、40年代後半になると、イカと共に大きな収入源であった「コウナゴ」が大不漁となり、続いて「イカ」も不漁続き、さらにとどめを刺したのが、昭和48年の「石油ショック」です。町は長い不景気の時代を迎えました。

 ただでさえ不漁続きで資金繰りに困っている船主達に、高騰した石油価格が追い打ちかけたのだろうと思います。子どもの耳にも、悲しい噂話が聞こえてきて、記憶に残っている苦いお話がいくつかあります。

 「〇〇家では、お嫁さんが舅から、実家に行って親に借金の連帯保証人になるよう頼んで来い、ハンコを貰うまでは帰って来るな、と言われたそうだ」とか。

 とても子どもの耳に入るような話とは思えない様な話ですが、それほどまでに、当時の私の故郷は不況に苦しんでいたと言うことなのでしょう。

 陸からは、美しくロマンチックにさえ見える漁り火ですが、なかなか厳しい物語を秘めているものですね。

 本当は、漁り火にまつわる軽い思い出話を、と思って書き始めたのですが、自分でも予期せぬ暗い展開となってしまいました。故郷の暗い思い出が、漁り火に照らし出されてしまった格好です。

 長くもなりましたので今日はここまでにして、「軽い思い出話」は明日に回したいと思います。では。(続く)