おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

「youは何しに日本へ?」「ワタシ、日本語、少しです」

 Netflix(ネットフリックス)で、「ル・ポールのドラァグ・レース」という番組を視ています。

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 この番組に出場するドラァグ・クイーン(女装した男性)達の自信に満ちあふれた発言が凄いの。

 「私は完璧よ。悪いけど他の人はレベルが低いわ」とか、「今回はたまたま失敗しただけ。次は実力をみせるわ」とか、常に自己肯定感に満ちあふれています。それどころか、「審査員は私のことが気に入らないみたいだけど、それは彼がわかってないからよ」と、審査員の批判まで始まったりして、日本ならば「傲慢」とか「性格悪い」と言った烙印を押されそうな発言の連続です。

 こういった彼我の相違を感じると、つくづく文化とか価値観、そしてそれらを形作る広い意味での「教育」の違いといったものを思わずにはいられません。良し悪しは置いておくとして、自己主張や発言することに重きを置く米国と、協調や聞くことの大切さを教える日本との違いを突きつけられるような気がするのです。

 もう一つ。別なテレビ番組の話をします。

 タイトルに書いた「YOUは何しに日本へ?」というテレビ番組もよく視ています。青森県では、土曜日のお昼に放送されています。地方ではおなじみの、 

 ※当社での放送日時とは異なっております、というテロップが時々入ります(笑)。

 この番組では成田空港で、日本にやってきた外国人にインタビューを申し込むシーンが度々あるのですが、

 「インタビュー、OK?」という質問に対して、

 「ハイ。ワタシ、日本語、スコシ、シャベリマス。デモ、スコシ」とか、

 「ワタシ、日本語、ジョウズジャナイ」といった、自信なさそうにはにかむ外国人の姿が多く見られます。アメリカ人YOUも例外ではありません。

 えっ、どうして?アメリカ人って、常に自信に満ちて、ワタシは大丈夫「イエス、アイ、キャン」の国民性なんじゃ無いの?なんで日本語に対してはそんなに控えめなの?不思議に思っていたところ、先日、知り合いのアメリカ人とお話する機会があったので、聞いてみました。会話は日本語で、ところどころ英語が混じるといった状態です。

 私が聞きたかったのは、二つのテレビ番組に見る、アメリカ人の自信たっぷりさと、自信なさげな態度とのギャップについてです。何か理由があるのだろうかと思いつつも、会話の相手が若い人(20代)だったので、「個人差」ぐらいの答えかなと思っていたんですね。ところが、驚きの答えが返ってきました。

 

 「ワタシは日本に来る前、日本語の学校で勉強しました。その時、言われました。日本では、日本語出来ます、というのは良くない。ワタシの日本語は上手じゃない、と言いましょう。そう習いました」

 

 ・・・。すべての外国人というわけでは勿論ありません。でも、少なくともアメリカの日本語学校では、日本語だけでは無く、日本や日本人の性質についてのレクチャーも教育の一環として行っているところがあるわけですね。そして、そこでは、「日本語、ヘタデス」という控えめな態度が好まれると教えられるわけです。私はなんだかショックでした。日本人同士なら「謙遜」で済む話が、相手が外国人となると、なんだか違う色合いになる気がしたんです。ちょっと複雑な思いでした。

 

 最後に、もう一言、その時の彼女の言葉を紹介したいと思います。

 「でも実際、ワタシは日本語の勉強にブランクがあったので、日本に来たとき、ワタシの日本語、本当にヘタでした」

 

 先に書きましたが、ワタシと彼女の会話はほとんどが日本語です。私は13歳(中学1年)から学校で英語を習い始め、それから何年も何年も英語を勉強したはずなのに。

「英語はだめです」が、謙遜などではなく、全くの真実であるという多くの日本人の悲しさ。もうちょっとどうにか、どうにかしたい英語。これはいくつになっても持ち続ける、多くの日本人の宿題のようなものかも知れません。ちょっと頑張ってみようかなと思う今日この頃です。

 いうは易し、で終わらないよう、ブログに書いておきたいと思います。では。