おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

パックンとドナルド・キーン

 昨夜はテレビで、木曜夜のお楽しみ『プレバト』を視ました。この番組で俳句の勉強をしております。

 今回は、アメリカ人のパックン氏が見事、才能アリ2位を獲得しました。

  ハイパーインフレ  ボリバル札の紙雛

  ※俳句は五七五の間を空けないのが正しい表記なのですが、分かりやすいようあえて、上五と中七の間を空けました。

 アメリカ人にこんなに見事な俳句を作られると、感心すると同時に困ってしまいますね。ハイパーインフレに苦しむベネズエラの様子が実感をもって伝わる気がします。昔、世界史の教科書で見た、第一次世界大戦後のドイツの写真を思い出しました。

 

 もう一つ思い出したのは、先日亡くなられたドナルド・キーン氏についてです。曖昧な記憶で書くのは申し訳ないのですが、ググっても見つけられませんでしたので、探したという努力に免じてお許しを。

 何十年も前のテレビ番組でのことです。キーン氏は松尾芭蕉の次の俳句の素晴らしさについて語っておられました。 

  

 夏草や兵どもが夢の跡

 この俳句の素晴らしさは、「つわものども」という音の響きにある。「も」「の」「ど」といった、くぐもった、こもったような音の響きが、まるでそこに亡霊が立ち現れるかのような、そんなイメージを作り出す。

 

 上に書いたのは、あくまで私の記憶の中のものであり、さらに私の中で勝手に再構成されたものです。そんな不正確なものをなぜ書いたかと言いますと、その時の私の驚きをどうしてもお伝えしたいと思ったからです。

 句の意味を理解することは、どこの国の人であれ可能でしょう。日本語を母国語としない人であっても、勉強すれば出来ると思うんです。でも、文学には、理解を越えて味わうという楽しみがあるわけで、どれだけ深く繊細に味わえるか、そこはやはりその国の人が圧倒的に有利だと思うんです。

 「理解する」ためには、言葉の意味や作品の背景や、作者のバックボーンと言ったものを勉強するという、「方法」がありますね。ところが、「味わう」ということは、五感を総動員してと言いますか、五感を研ぎ澄ますといった「修行」の末の「感性」にかかっていると思うんですよ。

 アメリカ人でありながら、「兵ども」という言葉の喚起するものを、十二分に捉えたキーン氏。持って生まれた「才能」も勿論あるのでしょうが、日本の美術や文学を愛し、それらにのめり込むようにして獲得した「感性」は、ここまで到達できるのか。私の記憶に深く刻まれた驚きをおわかり頂けますでしょうか。

 あらためて、ご冥福をお祈りいたします。

 

 それにしても、パックン氏の俳句、発想が面白いですね。次作はさらにハイパーなものがうまれるか、楽しみです。俳句のパックン、略してハイパーと呼ばれる日は来るでしょうか。では。