おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

「100万円欲しい人、この指とまれ」って(呆)

 遅ればせながら、ZOZOTOWN前澤社長の1億円ばらまきについて、思うところを書きたいと思います。

 本当にイヤな話だと思いました。理由は大きく二つです。

 

 その1

 「誰も損するわけではない」とか「ツィッターをフォローするだけで当たったら、超お得じゃん」」といったフレーズをインターネット界隈で目にしました。

 その、「損」とか「得」といった考え方がそもそも嫌いなの!

 私は子供の頃、昭和一桁生まれの親や、あるいは学校教育(道徳の授業とか)、そして、たくさんの本から、「損・得」で動くのは恥ずかしいことだと教わりました。「損・得」を判断基準とすることは、「欲得ずく」=打算的という卑しい心根とされていたのです、昔は。

 では、私に「欲」はないのか?大ありですとも。欲望の塊です。

 だからこそ、なのです。私が子供時代に教わったり学んだりしてきたことは、所詮「きれい事」です。でも、「きれい事」こそ、人が掲げるべき「理念」でしょう。私を含めて「欲」の虜となってしまいがちな人間が、「欲」よりも大切な何かのために、「欲」に打ち勝つために、「損・得」で動くのは人間として恥ずかしいことだと、幼い頃から教える必要があるのです。「欲」に負けないということが、不自然なことであるからこそ、「教える」のです。

 そして、人間は弱いもでもあります。目の前に美味しそうな「餌」を吊されれば、よだれを垂らして走ってしまうものです。そんな人間の習性を熟知して、「餌」を吊すのは、なんて罪なことだろうと思いました。不快です。

 

 その2

 この「ばらまき」の話題から連想したのは、江戸時代の紀伊国屋文左衛門という豪商の逸話です。雪見酒を楽しむ金持ちの邪魔をするために、雪の上に小判をばらまいて、使用人・女中・太鼓持ちなどに雪を蹴散らして拾わせたとか、節分には豆の代わりにやっぱり小判をまいて、欲に駆られた人々が我先にと争うのを見物して楽しんだとか。

 こういうのを「お大尽遊び」というそうですが、お大尽という人種の最大の勘違いは、他人を自分の楽しみのためのコマとして扱うことに罪悪感がないということです。他人の浅ましい姿を見て、笑う。しかも、浅ましくなるように自分が仕向けて。浅ましいのはお前だよ、と思うのです。

 もう一つ、想像した姿があります。

 小学校の教室です。友達のいないボンボンが、大人気のゲームソフトを5本、机に並べて叫びます。「このソフト欲しい人、この指と~まれ。あ、待って。みんな、欲しいの?じゃあねえ、なにか芸をやって、僕を笑わせた人、5人にあげま~す」

 

 このボンボンの姿に何を感じますか?そして、その1で書いたことに通ずるのですが、もし自分の子供がそのソフト欲しさに一生懸命芸をやっているとしたら、その姿を想像したらどうでしょうか、これはダジャレどころでは無く、ほんとにゾゾ-っとする話だと思うのです。新年早々、本当に不愉快な話題で、少し頭を冷やしてから書こうと思ったのですが、書いているうちにやっぱり熱くなってしまいました。ご容赦。