おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

私は「同性婚」の関係者か部外者か

はてなおすすめ記事で、こちらのブログを読ませて頂きました。

chikirin.hatenablog.com

 

 迷惑な人の5番目として、「自分は関係ないのに反対する人」というのがありました。

 具体例としては、同性婚夫婦別姓飛び級尊厳死があげられ、これらに反対する人は世の中の進歩を妨げる人だと、一刀両断されています。

 

 先ずは同性婚について、私の思うところを述べたいと思います。

 私たち夫婦に二人の息子、AとBがいるとします。夫と私が同時に、千円の遺産を残して昇天したとします。AとBは500円ずつ相続します。翌日、Aが妻子を残し、昇天します。500円は妻子に相続されます。全く問題無しです。子供がおらず、全額残された妻が相続した場合も特に何も感じないと思います(あの世からの感想になりますが)。異性婚であっても、必ずしも子を持つとは限らないといういうことぐらい、わかっています。ただ、可能性はゼロではありません。この、可能性はゼロでは無いということが大事だと思います。なぜなら、先のことはわからないのが人生であり、結婚に限らず、あらゆる場面で人は可能性というものにすがって生きていくと思うからです。

 では、Aが同性婚の配偶者を残した場合はどうでしょうか。私たち夫婦が残した500円はAの配偶者aと養子に相続され、aが昇天後は、養子または養子がいない場合は、aの親族へと渡ることになります。

 

 率直に言えば、納得できない。なぜ私と夫が遺した500円を赤の他人にやらなければならないの。Aが一人っ子だったならどうでもいいけれど、Bがいる!私たちから渡り、Aが遺した500円はBにやりたい!

 

 結婚とはつまるところ、「相続」の権利を保障する契約だと思うんですよね。「血のつながり」とは不思議なもので、例えば私の叔母曰く、「赤の他人には一銭もやりたくない。娘にもやりたくない。でも息子には全部やりたい」だそうで、気持ちはわからなくもないです。

 同性婚が求めるものは、当然異性婚と同じ権利でしょうから、この相続の問題に私自身が理性的に納得できるまで、私としては「賛成は出来ない」という立場になってしまうのです。

 

 さて、最初にご紹介したブログについて書きたかったことの、本題に入りたいと思います。

 私がひっかかったのは、「関係ないのに」の部分です。例えば、友人の退職金の使い途とか、息子のヘアスタイルとか、「私」に関することについては「関係ないヤツは黙ってろ」だと思います。でも、ブログ主さんがあげた四つの例は「公」の問題ですよね。沖縄の米軍基地問題とか、青森県の核燃料施設について、他県のヤツは関係ないとは誰も思わないでしょう?同じことではないでしょうか。

 

 既に異性婚してしまっている私は「同性婚に関係ない人」なの?意見を言ってはいけないの?(いけないと言われても言うんだけどさ)「関係のある・無し」は、どういう基準で決まるというの?

 

 どうしても書かずにはいられませんでした。そして、書いていて、つくづく「年をとったなあ」と思いました。

 「思います」とか「なの?」とか、文末がどうにも情けない。昔の私は違っていたと思います。自分の考えは正しいと「無知ゆえの自信」にあふれていたので、物事はつねに言い切っていました。時には「ねばならない」とまで断言したり。年をとって少しは成長したので、「自分が正しい」とは限らないということがわかったというのもあります。でも、一番の理由は「世の中から遅れている」という自覚が、自信を喪失させているからだと思います。

 でも、だからこそ、他の人のブログやニュースを読んで「自分の意見」を言うべきだとも思うのです。間違っていたり、浅薄だった場合、親切な誰かがコメントやブクマでご指摘して下さるかも知れませんから。黙ったまま、自分の中で間違いを温め続けるより、ずっといいです。なんたって、刺激になりますもの。

 どうせい、ブログをやるなら、賛否両論があるような、そんな記事も書いていきたいと、新年にあたり思うのでした。でも、「否」よりは「賛」に対してうれしさが隠せないというのが、ホントのところです。おばあさん、の習性ですね。