明治44年に、尋常小学唱歌として発表された「もみじ」の歌詞は、本当に素晴らしいと思うんですよ。ウザいほど語りますので、覚悟してお付き合い下さい。
♪ 秋の夕日に 照る山紅葉 濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる 楓や蔦は 山のふもとの 裾模様 ♪
先ず、ずうっと前から思っていたんですが、歌詞の最後にある「裾模様」って、戦前の子供にとっては日常語だったんでしょうか?念のために書きますと、「裾模様」とは「着物」の模様を表す言葉で、留め袖とか、訪問着とか、裾の方に模様が描かれている、ああいうものを表す言葉です。着物全体に模様があるものを「総模様」というのに対して使われるもので、「裾模様」は帯が引き立つという効果があるのだそうです。
私が「裾模様」の正しい意味に気づいたのは、だいぶ大人になってからで、それまでは、山の裾の方に模様のように見える、というような意味に受け取っていました。まあ、あながち間違いというわけでもないのでしょうが。
戦前の子供にとって「裾模様」という言葉が日常に根付いていたとすれば、理由は、一つは暮らしの中に「着物」が当たり前にあったこと。二つ目は、大家族の中で大人同士の会話を耳にする機会が多かったこと。等ではないでしょうか。
いずれにしろ、言葉=文化であり、文化の豊かさの指標の一つが「多様性」ということであるなら、「裾模様」という言葉が当たり前だった昔の子供は、ずいぶん文化的に豊かであったのだなあと、賛嘆の思いでいるのす。
そして、なんと言っても、「松を彩る」ですよ。紅葉の季節の主役は一般的には「楓」や「蔦」などの、赤や黄色に色づく木々でしょう。常緑の針葉樹なんて眼中に無くなるのが人というものじゃないですか。それをこの唱歌の作詞者は、主役に「松」を持ってきて、「楓や蔦」は松を引き立たせる脇役としたわけです。思わず、「不動心」という言葉が脳裏をよぎりました。(ちょっと違うか。書いているうちに気分が高揚してきてしまいました。)
俳句の季語に「色変えぬ松」というのがあります。秋の季語です。松は一年を通して「色変えぬ」ものですが、周りの木々が色を変える中で、変わらないことの尊さ・美しさを讃えて、秋の季語となっているのです。
紅葉の美しさを詠みながら、変わらぬ松の緑を据えることによって、さらに赤や黄色が際立ってくる、どうです、素晴らしい歌詞じゃありませんか。
そこのあなた、読みながら思わず口ずさんでいたでしょう。あっ、図星をさされて、頬にもみじを散らしましたね。いいんですよ、歌って下さい。是非、タイトルのように、どなたかと輪唱もして下さい。 せーの、 ♪ あ~きの ゆう ♪あ~きの
えっ、「もういいよ」って?あきた?ごめん、ごめん。
近くの神社で、葉を落とした木に丸く残った、「ヤドリギ」を発見。ヤドリギも常緑なので、ヨーロッパではクリスマスの飾りとして用いられています。