おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

カボチャと白梅

 数日前、カボチャが食べたいなあと思っていたところに、見た目が美味しそうなカボチャが、とても安く売られていたので、衝動買いしてしまいました。直径25㎝ほどで、丸々一個が250円。農家の方ご免なさい、って感じです。

 「見た目が美味しそう」と書きましたが、カットされていて断面が見えるならまだしも、なぜ丸いままのカボチャでそう思ったのか。それはですね、しばらく前にテレビの『マツコの知らない世界』で、学習したからです。

 「カボチャはですね、この緑じゃ無い部分、ここがオレンジ色のものが、熟した美味しいカボチャなんですよ」ということでした。結果は大当たり。本当に美味しいカボチャだったのです。

 カボチャが美味しかったのは「当たり」のカボチャだったというのは勿論ですが、調理法も良かったのだと思います。それは「塩蒸しカボチャ」という、料理研究家奥薗壽子さんお勧めのやり方です。カットしたカボチャに塩をふって、フライパンで蒸し焼きにするだけというシンプルな調理法です。ところが、これが想像以上の美味しさなのです。

 「美味しいなあ、しみじみ美味しいなあ」

 それからほとんど毎食そのカボチャの塩蒸しを食べながら、その度にそう思うのです。

 「しみじみ美味しい」という表現はしばしば聞きますが、実感のある言葉だなあと思って、私は好きな表現です。特に野菜のお料理を食べたときにそう感じます。一口食べて「ウマい!」と大げさに叫ぶようなハッキリした味では無く、素材そのものの美味しさを味わうと言いますか、じっくり噛みしめたくなる、有り難いなあなんて思う、そんな美味しさです。

 そして、そんなカボチャの塩蒸しを食べながら、改めて思ったのは「塩」というものの偉大さです。食通になると塩にこだわるとか、本当の酒飲みは塩を肴に日本酒を飲むとか、「美味しい」の究極は「塩」に至るというような話は良く耳にします。残念ながら私などは、天ぷらに塩を出されると内心「天つゆがいいのに」と思う貧乏舌なのですが。

 そんな私ですが、今回のカボチャの美味しさを引き立てる塩の力には、ちょっと再認識させられるものがありました。

 「塩って凄いなあ。やっぱり最後は塩なのかなあ。そう言えば、中村草田男の句に、塩の句があって、あれも好きだなあ」

 そんな事を思いました。

 

 勇気こそ地の塩なれや梅真白  中村草田男

 

 「地の塩」という言葉は新約聖書に出てくる表現だそうですが、句の意味するところは、「真っ白な梅の花のような気高い勇気こそ、人が生きていく上で最も大事なものである」そんなような事だろうと思っていました。品位を感じると言いますか、キリッとした句だなあ、その程度に読んでいました。

 ところが今回、この記事を書くためにちょっと調べてみたところ、この句が詠まれたのは、昭和19年。学徒出陣する教え子に贈った、はなむけの句だったということを知りました。私の考えていた「人が生きていく上で」なんて、そんな簡単な「勇気」では無かったのです。

 80年前の今日12月8日は、真珠湾攻撃。太平洋戦争開戦となった日です。

 草田男が教え子に向けて言った「勇気」とは何だったのか。難しい句だと思います。今までの「好きだなあ」なんて、気楽には言えない句になりました。しみじみとしょっぱい句なのです。では。

welfare(福祉)について②

 「アニマルウエルフェア」についてのNHKの番組をみた数日後、またまた「福祉」というものについて考えさせられる番組に遭遇しました。

 その番組は「福祉」をテーマにしたとかそういうものでは無くて、そして私も「ながら視」だったので、印象的だった場面についてのみ語りたいと思います。番組の内容としては、NHKの昔の映像(昭和の白黒映像です)を、その地のゆかりの方々にご覧頂いて、思う存分懐かしがって頂こうと、そういったものでした。

 

 私の目と耳をグイっと持っていたのは、次の様なシーンと、それを視ながら語る「地元の皆さん」の思い出話でした。

 

 映像は白黒です。背景は海岸です。

 小学生の女の子が笑顔でワカメを引っ張っています。カメラが引くと、他にも何人かの小学生男女が映り、皆が手に手にワカメを持っています。

 映像に現在の音声がかぶさります。(ちょっと不正確です。ご容赦)

 「懐かしいねえ。ワカメ、干したよねえ」

 「修学旅行の旅費を稼ぐのに、皆でワカメ採ったんだよねえ。お金の無い家の子も多かったからね」

 「そうそう、そのために漁協が一日許可してくれて、採らせてくれたんだよね」

 

 上のやりとりを聞いた私に浮かんだ思いは、不思議な事に「昔の日本は豊かだったんだなあ」というものでした。画面に映っている村の様子や子供達の様子は、「豊か」にはほど遠いというのに。

 

 話は変わりますが、少し前に「子ども食堂」を運営している方とお話しする機会がありました。その時の印象深かった言葉を紹介します。

 「子ども食堂に来る子供さんは、ボランティアのお母さんの子供やその友達とかが多いんですよ。勿論、誰が来てもいいんですけれど。でも、普段一人っきりで食べているお子さんとか、あるいは家に食べる物が無いとか、そういう本当に来て欲しいお子さんがなかなか・・・。難しいところなんです」

 

 私達大人がお互いに見栄を張って暮らしている事は、当たり前すぎるほど当たり前のことです。でも、子供だってそうなんですよね。見栄もあればプライドもあるわけで。むしろ、誤魔化し方のヴァリエーションが少ないだけ、子供の方が体面を守ることに必死かも知れません。

 「ワカメを採って修学旅行に行こう!」

 これが一つの児童福祉であることは間違い無いことです。そして、この方式の素晴らしいところは、誰も肩身の狭い思いをしないという点です。なんて豊かな社会だろう、そう思われませんか。

 そんな時代から五十年以上も過ぎた今、果たして日本は、より豊かな社会になったと言えるでしょうか。「自助」とか「自己責任」といったことが声高に言われる昨今ですが、そう言いながら「ワカメ」は採らせない、そんな社会になってはいないでしょうか。

 私の生まれ故郷は貧しい漁村だったということは何回か書いています。子供の頃には、遊び半分でワカメを拾い、母に褒められたという経験もあります。そんな昔をカイソウしながら(ワカメだけに)、今回の記事を書いたのですが、自分の60歳という年齢を踏まえると、これは決して社会批判ではないのです。この社会を作った側としての、反省の弁でもあるのです。

 「子ども食堂」が必要な時代を作った側だという、そいう自覚を持って、welfare(福祉)というものに関心を寄せたいと、そういう反省の弁なのです。では。

welfare(福祉)について①

 最近たまたま視たテレビ番組で、心動かされることがあったので書いておこうと思います。

 一週間ほど前に視たNHKの番組なのですが、「アニマルウエルフェア」について特集していました。「アニマルウエルフェア」は直訳すると「動物の福祉」かな。番組では、養鶏場を取り上げていました。

 養鶏場の鶏、可哀想でした。ほとんど身動きも出来ない狭い狭いケージの中だけで一生を終えるのです。跳ぶどころか、歩くことも、羽ばたきをすることもなく、ただエサを食み卵を産むだけの生涯です。

 そこで、ヨーロッパ発の運動が紹介されました。「鶏にもっと自由を!私達消費者は、そのような鶏が産んだ卵だけを食べよう」というものです。鶏がもっと幸福に生きられるように、そして他の動物の福祉についても考えようという思想が、大きく広まっているのだそうです。日本でもその考えに取り組み始めた養鶏場があることが、紹介されていました。

 結局、コストの問題なんですよね。

 鶏を伸び伸び育てるには設備も人手も必要で、衛生管理の上でも現在の方法の何倍もの手間、つまりは費用がかかるそうです。特に、日本においては生卵を食べるという食文化があるために、外国以上の大変さがあると言うことでした。

 青森県って、卵が安いんですよ。普通の卵10個入りで200円前後。特売品は98円というのが一般的と言えるほど、あちこちの小売店で頻繁に売られています。私はその特売品を狙うことが多いのです。

 そんな私が、自分に問うてみます。可哀想な鶏に同情し、鶏のウエルフェアに賛同するというのならば、いくらまで、そのコストを負担しますかと。コストの負担とはつまりは価格です。

 1パック300円なら、1個30円かあ、まあいいでしょう。一人暮らしなので痛みは少ないです。でも、1個30円では「鶏ウエルフェア」の採算は採れないらしいのです。では1パック500円、卵1個50円、どうだ?ああ、厳しいなあ。卵1パック500円かあ・・・。

 「同情するなら金をくれ」という有名なドラマのセリフがありますが、身を切る覚悟が無ければ同情なんかしない方がまし、そういう事かもしれません。

 「可哀想という言葉だけならケッコー

 鶏が言葉を話せるならば、そう言うかもしれません。続く。

誤用に御用だ!

 ああ、今まさに「言葉は生きている」という現場に立ち会っているのだ、そんな気がしています。

 

 言葉の意味を知るために辞書を引いて、「誤って生じた語である」という説明に出会うことがあります。

 例えば、明鏡国語辞典(第二版)で、『どくだんじょう(独壇場)』を引きますと、

 「独擅場(どくせんじょう)の「」を「」と誤って生じた語。⇒どくせんじょう

と、あります。

 つまり、本来は「独擅場」が正しいのですが、今日では誤った方の「独壇場」がすっかり市民権を得てしまったので、言葉としては認めます。認めますが、辞書として解説するのは本来の語である「独擅場」の方ですよ、という事ですね。

 このように、本来は間違った使い方であったものが、段々に世間に浸透していき、やがては許容される言葉となっていく。「言葉は生きている」とは、このような意味でもあるのだと思います。

 最近、立て続けに「お持たせ」という言葉を耳にしました。一度目はテレビで、インタビューに答える若い女性が「お持たせに丁度いいです」と使っていました。二度目は、ラジオのテレフォン人生相談で50代の女性が、「そのお持たせが、800円ぐらいの物だったんです」と憤っていたのでした。

 どちらも、お持たせ=手土産という意味で使っているのだなと、すぐに理解しました。そして、間違った使い方だなとも思いました。

 確かに「お持たせ」とは「手土産」のことですが、「お持たせで失礼致します」などのように、特殊な場面で使われる言葉です。

 「お茶菓子の用意が無いものですから、お持ち下さった手土産(お持たせ)を出させて頂きます。失礼をお許し下さいね」

 こんな風に、頂いた側が手土産に対して用いる敬語表現なわけです。

 と、偉そうに書いていますが、「お持たせ」なんて洒落た表現は私の実生活に登場することなど無い言葉です。でも、随分前から知っていたので、ドラマや小説や、そういったものから得たのだと思います。そしてそういう場合、よほど難しい言葉で無ければ、前後の文脈から言葉の意味を推し量って、理解・記憶するものです。

 今回この記事を書くにあたり、私の勘違いであってはいけないと思い、ネットにあたってみました。

 結果としては、意味は私が述べた通りでした。でも、驚いたのは、「最近では手土産と同じ意味で使う人(誤用)が増えている」という記述が、非常に多く見られたことです。なんと言っても「お持たせ」は敬語なのですから、「手土産」よりもお上品な感じがする、その点が特に女性にフィットするのではないでしょうか。このままいけば、いつの日か「お持たせ」が「手土産」の意味で使われるのが一般的になる、いえ、それどころか「お持たせ」の独壇場(独擅場)になる、そんな日がやってくるかも知れません。

 私達は、一つの誤用が当たり前の言葉として広く使われるようになっていく、その現場に立ち会っているのかもしれないのですよ。と、歴史の目撃者になった興奮を感じて、一生懸命(一所懸命)書いてみました。

 

 いつの日か、手土産という意味で「お持たせ」が一般的に使われるようになる日が来たならば、私は次の様に言いながら、訪問先で手土産をお渡ししたいと思います。

 「お待たせ~、お持たせ~」

 では。

ウイルスと津軽の名字

 昨日の拙ブログで、ギリシャ文字のアルファベットXi(クサイ)は、中国の国家主席習近平氏の名字「習」の、英語表記と酷似していると言うことに触れました。それで、その事に関連して思い出した事があるので、書きたいと思います。

 

 津軽に比較的多い名字に、「野呂(のろ)」というのがあります。タレントで「野呂佳代」さんという、元・AKB48メンバーの方がいらっしゃるので、もはや全国区の名字なのかも知れませんが。

 十数年前、胃腸炎の原因として「ノロウイルス」という聞き慣れないウイルスが、一躍有名になりました。ちょうどその時、私と同じ職場に、「野呂さん」と言う方がいらしたんですよ。その方(50代男性)がしみじみおっしゃった言葉が忘れられません。

 「最近、ニュースのノロウイルスのせいで、私、とっても肩身が狭いんだよね。何も悪いことしてないんだけどねえ」

 何も悪いことしてない、その通りです。そして、実際にウイルスに感染した方だって、やっぱり「何も悪いことしてない」んですよね、病気になったというだけで。

 南アフリカが、今回のオミクロン株の報告により「懲罰を受けているようだ」と嘆く気持ち、分からないではないです。でも、実際問題として「疫病」に対しては程度の差こそ有れ、何らかの「制限」はせざるを得ないのですし。難しいところだと思います。

 

 さて、もう一つ。津軽の名字にまつわる職場の思い出にお付き合い下さい。

 あるとき、職場の玄関に長靴が脱いでありました。その長靴の履き口(裏側)には、油性のマジックで、ABOとくっきり書かれてありました。

 「何だろう?どういう意味だろう?輸血可能な血液型?違うねえ」

 私がそんな風に考え込んでいるところに、ある同僚が通りかかりました。物は試し、私はその同僚を呼び止めて聞いてみました。

 私  「ちょっと見て。この長靴のエー、ビー、オーって、何を意味すると思う?」

 同僚 「いや、阿保(あぼ)さんの長靴ですよ」

 そうなんです。長靴に書かれていたのは、単に持ち主の名字に過ぎなかったのです。阿保さんという方の・・・。

 

 今回、津軽独特と私には思われる上の二つの名字について、「名字由来ネット」というサイトで調べたのですが、先に挙げた「野呂」さんという名字は全国順位980位(18,500人)であり、「阿保」さんに至っては、全国順位3,238位(4,000人)という珍しめの名字で有り、しかも、その中の多くが、やはり青森県津軽地方にお住まいの方々なのでした。

 ちなみにかく言う私の名字ですが、これもやっぱり津軽っぽい名字でして、「名字由来ネット」によりますと、全国順位1,200位台(約14,000人)という、全国的には「野呂」さん以上に少数派の、津軽っぽい名字であることが判明したのでした。

 身近すぎて見逃している事って、あるものですよね。

 例えば、冒頭に登場した「アルファベット」という言葉の語源ですが、ギリシア文字の「アルファ、ベータ」から来ている、って知ってました?有名過ぎました?

 「そんなの語源のいろはだよ」そう思われた方もいらっしゃるかも知れませんね。では。

 

「オミクロン株」という命名について

 「オミクロン株」爆誕、という感じで世界が右往左往しています。勿論、これから迎える年末年始、私だって心配なのです。

 

 新型コロナウイルスの変異株の名称については、WHOがギリシャ文字のアルファベットの順に命名するという事になっています。ついこの間までは「デルタ株」が最も警戒すべき株であり、その後に確認された「イプシロン」「ラムダ」等、8種類の変異株は、ほとんど消滅していったということです。

 そして、本来の順番から行くと、「ミュー」の次である「ニュー」と命名されるはずの新変異株は、「ニュー」とその次の「クサイ」を飛ばし、「オミクロン」と命名されたと言うことなのです。

 この命名を巡って、次の様な新聞記事(東奥日報)を読みました。

 米FOXニュースは新たな変異株の命名について、WHOが中国への配慮などから原則を曲げたとの見方が出ていると伝えた。

 WHO報道官は、「ニュー」は英語の「new(新しい)」と混同されやすい。「クサイ」は一般的な姓であり、WHOはいかなる集団にも嫌がらせとなることをしない

 

 ちょっと解説を加えますと、ギリシャ文字アルファベットの14番目である「クサイ」は「Xi」と書くそう。そして、それは中国の国家主席習近平氏の姓名の英語表記「Xi Jinping(シー・チンピン)」の、姓の部分に酷似しているという事なのです。

 

 「なる程ねえ」

 これが上の記事を読んだ時に真っ先に浮かんだ私の感想です。「ニュー株」では、固有名詞なのか「新しい株」という一般名詞なのか区別がつきづらい、これは納得です。

 問題は次の「クサイ株」です。

 全くの偶然ですが、私達日本人はこの「クサイ株」が回避されたことには賛成という人が多いかと思います。理由はお分りでしょう。日本語にありがちな同音異義語問題です。小学生とか、絶対に誤解しますよね。いい歳をした私だって、すぐに「この対応は臭いものに蓋をしようとしている」といったダジャレを言いたくなりますもの・・・。

 えー、話を「習=Xi」問題に戻します。

 私は無用な軋轢を避けるために新変異株に「Xi」を採用しなかったという点は、賢明であったと思います。ネット上に広がっている悪意に満ちた(面白半分の)書き込みの酷さを知っているので、「Xi株」という名称がどの様な文脈の中で使われるか、容易に想像がつくからです。

 ただ、私がひっかかったのは、WHOの釈明にある「いかなる集団にも嫌がらせとなることをしない」という部分です。そんな事は不可能だと思うのです。

 世界には多種多様な言語・文化があります。そのいずれにも差し障ることが無いようななんて、そんな事が可能でしょうか。実際、「習=Xi」という理由で却下された「クサイ」というギリシャ文字ですが、もしも採用になっていたならば前述のように、戸惑いや不快感を覚える日本人は少なくなかったかも知れないのです。(ちなみに、日本語はそれを母語として話す人が世界で9番目に多い言語です)

 WHOは、「いかなる」なんて大げさな方向に話を広げるのでは無く、もっと率直に理由を説明すべきだったのではないかと思います。率直こそ、痛くもない腹を探られるような事を避ける、最も優れた方法だからです。

 

 それにしても、FOXニュースの言う、命名の原則を曲げて「クサイXi」を採用しなかったのは中国への配慮だと言う見方。世の中には嗅覚の鋭い人がいるものだと感心しきりなのです。では。

生姜が好きです

今週のお題「あったか~い」

 

 今年の秋から、私に大きな変化が現れているのです。それは、お料理が好きになったということ。

 今まで拙ブログで何回か言及しているのですが、私はお料理はあまり好きではなく、仕方なくやっているという感じでした。それが、どういう風の吹き回しか、「お料理って面白い」「自分で好きな物を作って食べるって楽しい」、そういう心境の変化がおきたのです。

 思えば、私は怠け者で飽き性なのにどこか完璧主義という、困ったと言いますか情けないと言いますか、そういう性質の持ち主なのです。そのため、お料理に関しても、「レシピ通りに作らなければ」「失敗は許されない」、そういった足かせを自分にはめていたような、そんな気がするのです。

 ところがなんのきっかけか(恐らくYoutubeで料理動画をみるようになったからか)、実に楽~な、軽~い気持ちでお料理が出来るようになったのです。そして、持ち前のずうずうしさを発揮し、友人達に「食べに来て」と宣伝までしているのです。

 友人達は皆大人なので、「美味しいよ、全部美味しいよ」と褒めてくれるのですが、私が「何が一番美味しい?」と尋ねますと、「土鍋で炊いたご飯かな(笑)」という答えが返ってきたりして。皆、正直な大人なのです。

 私が作るお料理は野菜中心なのですが、その中でも最近は生姜の活躍に目覚ましいものがあります。生姜には体を温める効果があるというのは有名で、寒い季節には積極的に摂るようにしているのですが、自分で作るお料理には好きなだけ生姜を増量できるというのがいいですね。また、煮魚などを作る際には臭みをとるために生姜をいれますが、その生姜を一緒に盛り付けて食べてしまう、そんなことも外食にはないメリットですね。甘塩っぱい味のしみた生姜、美味しいですよね。そして、やっぱり体が温まるような、そんな気もしてくるのです。

 

 話はかわりますが、先日、スーパーで次の様な光景を目にしました。

 ご高齢の男性が、カップライス(カップ麺のご飯ヴァージョン)を一つ手に取り、しばらく眺めた後、レジに持って行きました。そして、レジの若いお姉さんに次の様に言いました。

 お爺さん 「これにお湯を入れて貰えますか?」

 お姉さん 「そういうサービスはしていないんですよ」

 お爺さん 「いや~、私はこういうのやったこと無くて。私、出来ますかねえ?」

 お姉さん 「私もやったこと無いです」

 

 上の会話を耳にした私は、お姉さんの切り返しの上手さ、カップライスなのに冷た~いという矛盾、その二つを同時に感じ、お爺さんには申し訳ないけれど、面白がってしまいました。

 そうなんですよねえ。

 私自身、男やもめになった実父が「食べる事」に苦労していた姿をみているので、一人になった高齢男性が、家事の中でも料理に困るというのは容易に想像がつきます。なんとか手軽に、目先の変わったものも食べたい、そう思ったんでしょうね。

 いきなり料理好きに変身した私ですが、いつ何時「飽きっぽさ」が顔をだすか、続けられる自信はないのです。でも、人間、生きている限り食べなければならないのです。できる限り、自分で「食べたい物」を食べたい。そのためには自分で作るのが最善でしょう。しょうが無いなどと諦めて食事の支度をするのでは無く、好きな生姜をタップリ入れて楽しんで料理をする、そんな生活ができるだけ長く続けばいいなあ、そんな風に願っているところです。では。