おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

「継続は力」って、ホントよね

 二週間以上もブログを更新していませんでした。理由は色々あるのですが、一番は、やっぱり「怠け癖」ですね。書いていないと書けなくなるというか、モチベーションも減退するというか。「ああ、ブログ・・・。まあいいかあ」そんな感じでした。

 でも、更新を楽しみにして下さっている読者もいらっしゃるし、何より、自分の生活の張り合いとして、ブログは頑張ろうと思っていたはず。書かねば、ネタは無いけれど書かねば、そう思って、今パソコンの前に座っています。

 

 「継続は力なり」というフレーズは知っていても、実感することはあまり無い人生でした。なぜなら継続して何かを頑張った事が無かったので。逆に、「積み重ねない努力は、崩れ無い」は本当で、特に何かで挫折したり、あるいは「力の衰え」を実感したりするようなこともなく、まあ、ダラダラとした日々を過ごして来たわけです。

 ところが。

 ここに来て「記憶力」の衰えが凄まじく、「続けないと出来なくなる」を実感させられているのです。二つ、具体的な例をあげたいと思います。

 一つ目は「手編み教室」でのことです。冬物のアランセーターをゆっくり編んでいるのですが、今週、先生から次の様に言われました。

 「このセーターの袖付けは、春に編んだカーディガンと同じやり方ですから、大丈夫ですね」

 ドキンとしました。だめだ、忘れてる。絶対思い出せない。とりあえずまだ先の事なので、「はい」と誤魔化し返事をしてしまいましたが、その時が来たら、

 「スミマセン、忘れました。もう一度お願いします」確定なのです。

 二つ目。これは本当にショックでした。

 今年初めての「焼き茄子」を作ろうと思ったのです。作ると言っても、魚焼きグリルで焼いて皮を剥くだけなのですが。

 洗った茄子をふきながら、「あれ?茄子って皮に少し切れ目を入れるんだったけか?なんかそういう記憶があるような・・・」

 薄ボンヤリとした記憶なので、多分不要だろうと判断。そのままグリルで焼いていたところ、「ボンッ」という爆発音が。そこでハッキリと悟ったのです。

 ・そうか、この爆発を防ぐために皮に切れ目を入れてたんだ

 ・第一、切れ目を入れて「丸ごとの茄子」を料理するとしたら、「焼き茄子」しかないじゃないか

 悲しいのは、この期に及んで「茄子の皮に切れ目」の件は、思い出したのではなく、考えて結論に至ったという点なのです。今までに何十回と作ってきた「焼き茄子」なのに、およそ一年の空白で大事なポイントを忘れてしまい、思い出すことさえ出来なくなってしまったのです。

 「継続は力」は、若い人の場合は「力を伸ばす」という意味なのでしょうが、この年になると「今まで出来ていたことが、これからも出来るように」、物事を継続して行かなければならないのだと考えさせられました。特に、お料理はサボっていると本当に出来なくなってしまうと実感しているので、面倒がらず、頑張らなければと自分を励ましているところです。

 そしてこのブログも、「継続は力なり。書いていれば、書ける」と信じて、続けていきたいと思います。ブログもお料理も、続けていればそれなりに「私の味」が出てくるだろうことを期待して。

 読者の皆様も、「購読は力なり」、そう信じて(?)宜しくお付き合い下さい。では。

外ヶ浜町へのドライブ

 「海を見に、ドライブしない?」

 車の運転が好きだというお友達が誘ってくれました。目的地は津軽半島の北端、外ヶ浜町。「龍飛崎」と言えば、県外の方にもなんとなくイメージして頂けるかも知れません。日曜日でしたがほとんど人影は無く、有名な「階段国道」も、完全な貸し切り状態で歩いてきました。

 外出自粛でなかなか旅行にも行けない昨今です。私の写真で少しでも「気分」を感じて頂けたらと思います。

 写真のテーマは、「言葉との出会い」ということで。

 

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 ♪ご覧あれが竜飛岬 北の外れと~

 と、石川さゆりさんの美声を聞かせてくれる『津軽海峡冬景色』の歌碑です。

 正直なところ、存在は知っていたもののあまり期待はしていませんでした。ところが。実際にここに立って歌声を(しかも、すごく音がいいのです)聞くと、ムード満点。ウットリしてしまいます。二回も聞いてしまいました。

 そしてですね、もう一度上の写真をご覧下さい。

 なんだか、ロールケーキが食べたくなってきませんか?サブリミナル効果ってやつでしょうか(違うか、笑)

 

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  全国的に有名な「階段国道」。当然、車は通れません。「冬の間、除雪はしません」という注意書きがありましたので、冬期間は車どころか、人も通れないのかも知れません。「かいだん」は夏の風物詩、ということで。

 

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 階段国道の両脇、紫陽花が綺麗でした。この国道は竜飛漁港へ通じる道なのですが、かつては「通学路」でもあったようです。右写真の屋根が見えている場所は現在は集会所が建っていますが、かつては竜飛中学校があったそうです。

 通学路が階段で、しかもそこは国道。まるで物語の世界の様じゃないですか?
 

 

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 今は外ヶ浜町の龍飛崎ですが、そこはかつては「三厩村(みんまやむら)」でした。

上の左写真が、旧村名の由来である「厩石(まやいし)」です。

 何でも、平泉を脱出した義経は、ここで三つの洞穴に繋がれた3頭の龍馬(りゅうめ=脚の速い馬)を、観音様の御利益で授かったのだそうです。一行はそれに乗って無事に海を渡って行ったとか。

 そこから、この村は、三つの厩(うまや)=三厩(みんまや)となったのだそうで。厩石の道路をはさんだ向かい側の崖の上には、「義経寺(ぎけいじ)」というお寺もありました。

 お寺には山号というものがつきますが、こちらのお寺の山号は「龍馬山(りゅうばざん)」でした。右の写真に写った立板な看板を拝見したときは、

 「龍馬と義経と、日本史二大ヒーローの名前を掲げるとは、なんと欲張りな!」

不謹慎にもそう思ってしまいました。ちゃんと、いわれがあっての事だったんですね。

 旧村名のみなもとともなった言い伝えに考えを巡らすこともなく、大変失礼致しました。

 

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 こちらの写真は、現外ヶ浜町、かつては蟹田村だったところで撮った一枚です。

「ウェル蟹」。いいですね。私にはたまらないネーミングです。特に、小さい「エ」。発音する際には、Well の発音になるよう、留意したいものです。

 

 さて、「小さな旅の記録」はここまでで、最後にオマケの一枚です。

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 これは個人的に絶対はずせない一枚なのです。良くみかける雑草ですが、何という名前の植物か、ご存じでしょうか。

 標準語では、「虎杖」と書いてイタドリ。名前を聞けば、ああ、と思われたかもしれません。私の故郷では「スカンポ」と呼ぶのが一般的だったと思います。イタドリという標準語名は、大分大人になってから知りました。この植物をみて、同行のお友達が言いました。

 「サシトリって、厄介な雑草だよね」

 サシトリ!?

 そうか、津軽では「サシトリ」なんだ!ああ、そう言う事であったか!

 私の故郷では渓流釣りも人気なのですが、その際、エサとして良く用いられるものに、「さしとり虫」というのがありました。小さな蛾の幼虫で、どこから採取するかと言うと、スカンポの茎の中からだったのです。

 それで「さしとり虫」か!「さしとり虫」は津軽弁からだったんだ!

 長年、なんとなーく疑問に感じていたことが、パッと解けた瞬間でした。

 確かに、こうやって書いてみればどうと言うこともない、小さな小さな個人的発見に過ぎないわけです。でも私の喜びはなかなかなものでありまして、とてもむしは出来ないと、こうして書き残した次第なのですよ。では。

漱石と四迷にシンパシー

 昨日は標準語の歌を津軽弁の替え歌にすることの難しさについて書きました。中でも、津軽の生活圏には存在しない物を、どのように表現すればいいのか、これは本当に難しい。結論としては、作者の意味したいところをくみ取って、意訳するしかないのではないか、そう思いました。例えば、『木綿のハンカチーフ』の三番に

 

 木枯らしのビル街~ 

 

 というフレーズがあるのですが、木枯らしは太平洋側に吹く風なので、津軽ではあまり認識されることは無く、ましてやビル街に至っては、「何それ?」。

 じゃあ、そのまま「木枯らし」「ビル街」でいいんじゃないの、そう思われるかも知れませんね、都会の方は。お言葉返すようですが、それじゃあダメなんですよ。

 自分達が決して口にしないような標準語が、「津軽弁の文脈」の中に登場すると、津軽人は、なんとも言えない居心地の悪さのようなもの、お尻がムズムズするような、そんな感じがして落ち着かないのです。そして、その居心地の悪さから逃れるため、ついつい

 「おろ~、東京の人だけんたな」(まあ、東京の人のようね)

 などと言った、からかいの言葉を発してしまったりするのです。そこで、私は頭をひねり、次の様に意訳してみました。

 木枯らしのビル街~ 

    ↓

 風、たんげ 寒びべさ (風は相当寒いでしょう)

 ここは地域限定の読者にお尋ねしたいと思います。津軽の皆様、如何でしょうか。

 

 さて、これから書く事は非常に僭越で有るとの自覚はあります。でもどうしても書かずにはいられないので、読者の皆様はどうぞ苦笑しつつお読み下さい。

 私は上に書いたような、「日常に無いものを、どの様に自分達の言葉にするか」という問題に取り組んだわけですが、その時思い浮かんだのが夏目漱石二葉亭四迷でした。

 「I love you」と夏目漱石

 学生が「I love you」を「我、君を愛す」と訳したところ、漱石は「日本人はそんな事は言わない。月が綺麗ですね、とでもしておきなさい」と言ったとか。

 「Yours」と二葉亭四迷

 ロシア語の小説を翻訳していた四迷。女性が男性に向かって、英語で言うところの「Yours(あなたのものよ)」と囁いたわけです。四迷の訳は「死んでもいいわ」。

 

 分かる~、分かるよ~、漱石~、四迷~。「君を愛す」とか「あなたのものよ」とか、言わないわよね~。

 百歩譲って、言う方はまだしも(舞い上がってるからね)、聞かされる方はたまらない。もぅ背中が痒くなるというか、お尻ムズムズというか。

 読む人、聞く人に違和感の無い訳を心がけるのは、外国語から日本語への翻訳も、標準語から津軽弁への訳も同じなのだなと、そう思いましたね。

 漱石も四迷も私と同じ苦労をしたんだなあと、たんげ、なこなこしい気持ぢさなったネハ。(大変親しい気持ちになったのです)

 ね、最初にお断りしたように、僭越な話だったでしょう。でもどうか、四迷が自らを罵った「くたばってしめぇ」(筆名の由来)のようなお気持ちにはなりませんよう、そうお願いして、おしめえにしたいと思います。では。

津軽弁で替え歌を考える際の障壁

 全くの偶然でこちらの動画を聞いたところ、大変感動してしまったのです。

 


www.youtube.com

 朝倉さや(民謡日本一)という方の歌唱動画です。「Youtubeで見る」をクリックして、是非お聞きになってみて下さい。

  

 歌っている曲は『木綿のハンカチーフ』で、それを山形弁で、というところがこの動画の肝なのでしょうが、そんな事は抜きに、とにかく上手い!あまりに上手くて、聞いていて涙が出たほどです。早速、家族・友人にURLを送ったところ、友人の一人から次の様な返信がありました。

 「うまいもんだね。津軽弁でやってみる?」

 津軽弁かあ。実際に歌う場面はないけど、考えるのは面白いかも。ちょっとやってみるか。

 そんな軽い気持ちで昨夜、取り組んでみました。そして、標準語の歌詞を津軽弁にするには、いくつかの難しいハードルがあると気付いたのです。そこで、私が昨夜考えに考えた、津軽弁と標準語の関係についての研究結果を披露したと思います。お付き合い下さい。

 

[テーマ]

  標準語の「歌詞」を津軽弁に訳す際の難しさ

[訳す際の条件]

  歌詞に忠実であることよりも、津軽弁としての違和感の無さを重視すること

  実際に歌えること 

[考察結果]

  標準語を津軽弁のフレーズに訳す際には、難しさの段階があり、それは大きく次の六段階に分類することが出来る。最も簡単なものを第一段階とし、以下に具体例をあげる。

 

 第一段階 標準語と津軽弁が完全に一致しており、そのままで違和感が無いもの

      絵の具 星 ダイヤ 指輪 探す 染まる 送る 等々

 

 第二段階 標準語に意味・音数ともに合致する津軽弁があり、そのまま置き換えることが可能なもの

      僕=オラ 君=オメ あなた=オメエ いいえ=なもや 寝転ぶ=ながまる わがまま=からきじ ねだる=はだる 下さい=けでけへ (助詞の)に=さ 等々

  

 第三段階 標準語と意味は合致するものの、音数が合わず、工夫が必要なもの

      列車=汽車 都会=上(かみ) 欲しい=欲し ハンカチーフ=手拭ぎ でも=だばって 等々

 

 第四段階 アクセント位置が異なると違和感が大きすぎる(標準語に聞こえてしまう)ため、そのまま津軽弁としては使えず、言い換えが必要になるもの

      愉快(にアクセントがあってこそ津軽弁

      素顔(にアクセントがあってこそ津軽弁) 等々

 

 第五段階 津軽にも存在はする事物だが、対応する津軽弁はなく、かと言って標準語では違和感があり、同じ意味の別な「言い回し」を考える必要があるもの

      旅立つ 贈り物  はなやいだ 見間違う 煌めく 街角 キス 等々

 

 第六段階 津軽には存在しないものなので、同じ意味の別な言い回しも不可能なもの(意訳的な、別な言い回しにするしかないと思われる)

      木枯らし ビル街 (ねえ、涙ふく木綿の)の、ねえ 

[まとめ] 

  以上の一から六の段階に応じてあれこれ知恵を絞ってみたが、掲げた条件から外れたものが一つある。それは、一番から四番の歌詞までで必ず最初に登場する、「恋人」という名詞である。「恋人」は私の区分では第五段階に属する。津軽にも「恋人」は存在するが、その人物を「恋人」と称することはないと思う。ではなんと言うのだろうか?困ってしまった。

 恋人を津軽らしい言い回しにするとしたら・・・。「付ぎ合っちゅう人」だろうか。他には全く浮かんでこない。でも、それでは字余り過ぎる。

 ここはそのまま、違和感は大ありだが「恋人」のままで行くしか無いだろう。涙を流しながらの苦渋の決断。心境はまさに下記のごとしであった。

 ♪ たんだ、涙ふぐ木綿の 手拭ぎごっと  けでけへ 

   手拭ぎごっと けでけへ

  (ねえ、涙ふく木綿の ハンカチーフ下さい ハンカチーフ下さい) では。

夕立さえも懐かしく

 大雨の被害に遭われた方には申し訳ないのですが、こちら津軽では雨が嬉しいこの頃です。

 

 今年の梅雨は全くの空梅雨で、農家の方は「野菜もリンゴもカラカラだよ」と嘆いていました。そこへ、台風8号が珍しい進路をとって青森県も通るという予報。水曜日は津軽中で、「雨よ降れ、でも風よ吹くな」の祈りに満ち満ちていたかと思われます。

 その甲斐がありすぎたのか、風被害がなかったのは良かったものの、降水量はちょっと物足りない感じでした。もう少し、いえ、もっともっと降ってくれても良かったのに。

 木・金は、午後から「一時雨」の予報が出ていました。でも、私はだまされないよ。最近は「一時雨」はいつの間にか消えて、「結局降らない」の繰り返しでしたからね。

 ところが、当たるねー、天気予報。木曜日は雷がひとしきり鳴った後に大降り。昨日金曜日も、三時ぐらいからだったでしょうか、二時間あまり盛大に降りました。

 「夕立らしい夕立だなあ。夏感あるねえ」

 そう思いながら窓辺に立って外を眺めていると、傘を差した小学生が二人通って行きました。なんだか懐かしいなあ。

 

 私は今は無職で、優雅に夕立を眺めていられる身分なのですが、働いていた頃は、夕立にはいつもハラハラさせられたものです。

 朝はバタバタと最低限のことをして家を飛び出すので、天気予報もろくに見ませんでした。仕事中にパラパラと雨の落ちてくる音が聞こえると、いつもいつも「わっ、雨だ!しまった!」となるのでした。

 しまった、二階の廊下の窓が開けっぱなしだ、とか。

 息子達が小学生の頃は、「置き傘が”家に”置き傘だ。誰かの迎えの車に乗せて貰えますように」とか。学習能力の欠如といいますか、毎度毎度同じ過ちを繰り返していました。

 今日のタイトル「夕立さえも懐かしく」とは、我ながら詩的だなあと思うのですが、そういう心持ちになれるのも、余裕という物があってこそでしょうね。夕立は作物だけでは無く、私の心も潤してくれたという、自慢話のようなお話です。

 さて、夕立と言えば雷がつきものですが、昔よくママ友を笑わせたネタを紹介したいと思います。

 私 「うちの夫は雷親父で」

 友 「えー。あんなに優しそうなのに?」

 私 「いっつもゴロゴロしてるのよ」

 

 見事に「落ちる」ネタでしょう?雷だけに。では。

のむ、うつ、かう

 「飲む打つ買う」というフレーズをキーワードにちょっと書いてみようと思いまして、先ずはネットで意味を調べることにしました。勿論、飲むは酒、打つは博打、買うは女、そういう意味であるのは知っていましたが、念のため。

 そうしましたら、検索で提示された候補の中に、「昭和の男のたしなみ」という形容句がありましてですね、思わずクスリとしてしまいましたよ。(この、「思わずクスリ」という表現も昭和っぽいですね)

 

 昭和も遙か昔となり、この頃では「博打を打つ」なんて言葉は、比喩としてしか使われなくなったのではないでしょうか。変わって令和の今は、「打つ」と言えば「ワクチン」ですね。

 そのワクチンですが、生みの親・ジェンナーの逸話は有名です。牛痘に罹った人は天然痘にならないという伝聞から、天然痘のワクチンを発明したというあれです。その際、使用したのは牛痘の膿だったそうで、まさに「うみの親」なわけです。

 ちなみに、「ワクチン」という名称は、ラテン語のVacca(ワッカ=雌牛)に由来するのだそうです。

 考えてみれば「飲む打つ買う」の「買う」なんて、最早時代遅れも甚だしい言葉ですね。「打つ」の意味が変わったように、ここは一つ「買う」も「Cow(カウ=雌牛)」と改めて、そのついでに、「飲む」は牛つながりの「牛乳」ということでですね、如何なもんでしょうか。

 令和の「飲む・打つ・Cow」は健康の合い言葉と言うことで。いい感じにおさまると思うんですよねえ・・・。

 

 コロナウイルスワクチンの接種に関しては、その効果や副反応を巡って様々な情報が飛び交っています。命に関わることですから、皆が喧喧諤諤となるのは分かるのですが、中には科学的に全く根拠の無いような、荒唐無稽と思えるような説も混じったりしています。

 ネットでそういった書き込みを目にすると、あきれたりしながらも、そういう「愚かさ」もまた人間というものの本質の一つなのだろうと思ったりするのです。ジェンナーを巡る逸話の一つを思い出して。

 「ほら、あのジェンナーのあれ。なんでも、あれを刺されると刺された奴は牛になっちまうそうだ。とんでもねえこった」

 ああ、あれから二百年・・・。私達人間のなんと変わらぬ事か。さながら牛歩のごとし・・・。では。

私は真面目だと思っていたんだけど

 「東京オリンピックパラリンピック」が始まりましたね。開会式はご覧になりましたか。私はガッツリ観ましたよ。感想としては、「なんかショボい」と思いましたが、コロナ禍の中の開催と思えば、仕方ないところもあるんでしょうか。

 

 「動くピクトグラム」が意外に好評なようで、ビックリしています。私は「これ、オリパラの開会式でやること?」って思ったんですよね。なんでそう思ったのか、ネットの書き込みをみてハッキリしました。

 「仮装大賞かい!」

 そうなんですよ、サイズ感が「欽ちゃんの仮装大賞」レベルで、国立競技場でこれかい?って感じたんです。ある意味、無観客だから成立したのかなという気がします。世界中が「画面」でみるのですからね。

 

 もう一つ。世間の声と私との間に大きな隔たりを感じていることがあるんです。それは、「子供を深夜まで動員した」問題。

 私はネットでそのことを問題視する意見をみるまで、思いつきもしませんでしたよ。順法精神が足りないんでしょうか。自分では真面目な方だと思っていたんですが。

 労働させたならともかく、子供本人が喜んで参加した一生に一度のイベント。私達の日常でだって、お祭りや大晦日や、それから親戚が集まったとき、子供の夜更かしを大目にみることは普通にあることでしょう?それらとオリパラ開会式を同列に考えること事態が、常識外れなんでしょうか。

 昔、桃井かおり氏が出演したCMで、「世の中、バカが多くて疲れません?」というセリフにクレームが有り、「世の中、お利口が多くて疲れません?」に差し替えになったという事件、ありましたね。懐かしいですね。

 私は自分の事を、真面目なだけではなく利口な人間であると思っていたのですが、間違っていたようです。「子供動員問題」で自覚しました。「不真面目でバカ」な側の人間でした。

 

 話は変わりますが、私は二十歳前後の頃、谷崎潤一郎の小説が好きで、あれこれ読みました。その中で、『刺青』という有名な短編の書き出しなのですが、「どういうこと?意味がわからない」と強く印象に残ったフレーズがあるのです。

 

 「愚か」がなぜ貴い徳なのだろう?そう思った私のなんと若かったことか。

 今の私は記憶力を始めとした頭の働きは相当衰えたけれど、若い頃には分からなかったことで、分かるようになったこともあります。「不真面目でバカ」な側になってみなければ分からない事、世の中にはそんな事もいっぱいある、そう思うようになりました。

 ハイテクの時代に逆行する「動くピクトグラム」に味があるように、市井の人々の「愚かさ」が潤滑油だった時代があったのだと、久しぶりに『刺青』の一節を懐かしく思い出しています。では。