おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

涙を流しながら息子の成長を感じた

 三日に夫と息子その1がそれぞれの場所に戻り、もう少し家に居るという息子その2と、冷蔵庫の残り物を消費する日々が続いている。

 年末年始であることと、県外から三人もやってくるのだから万が一のことがあるかも知れないこととで、食品の類はかなり買い込んで置いた。年末年始、もっと一生懸命料理をすれば減り方も速かっただろうが、段々怠け始めて、少ない種類の食材で作るメニューばかりになっていった。このまま息子その2も居なくなれば、料理はほとんどしなくなるのはわかり切っている。消費のスピードは更に鈍る。買い物に行って新しい食材を買ってしまっては、古いものはいつまでもそのままだ。できる限り買い物には行かず、ある物で、無い腕を振るって料理をするよう自分に課した。

 可哀想なのは息子その2だ。連日のラインナップは残り物の野菜や納豆、卵、コンニャクなどの健康食(老人食とも)で、肉・魚の姿は見えない。文句も言わないところが一層不憫だ。

 

 八日(金曜日)の朝、目覚めると大雪だった。グズグズと雪掻きを始め、残り20%ほどで力尽き、雪も降ってきたところで家に入った。しばらくして起きてきた息子その2が「雪掻きするよ」と嬉しいことを言ってくれる。

 「もう大分済ませたから、あとで残りをやってくれればいいよ」と言いながら外を見ると、ゲエー、また積もってる。晴れ間を待って、二人で頑張った。仕事はなんでもそうだが、二人でやるともの凄く速くすすむ気がする。思いがけないほどテキパキと雪掻きは終わった。

 昼食は普段の粗食のお詫びと雪掻きの慰労を兼ねて、回転寿司に行った。 

 メニューを見ていた息子が、こんなのがあるんだと私に示したもがある。「なみだ巻」という種類の巻物だ。

 「なんだろう?ワサビが大量なのか」そう言いながら息子は「納豆なみだ巻」というのを注文した。息子は美味しいと言うし、ちょっと興味をそそられ一つ貰って食べてみた。凄い。恐る恐る半分口に入れたのに、効く、効く。本当に涙目になっていると、息子が言った。

 「お茶を飲むといいよ。ワサビの辛さは水溶性だからお茶で消えるよ。唐辛子はだめだけどね」

 息子の助言に従ってお茶を飲みながら、なんだかしみじみとなった。今まで我が家ではそういう類いの豆知識は、私や夫が息子達に教えるものだったが、そうか、こちらが教えて貰う側になったんだ。そもそも「なみだ巻」だって、息子と一緒でなければ口に入ることは無かっただろうし。これからはこういうことが増えていくんだろうな。楽しみだ。

 「なみだ巻」が「効く」ということは書いたが、付け加えると、私も息子同様美味しいと言う感想だ。今度回転寿司に行ったら注文するかも知れない。

 「これがホントの『涙のリクエスト』だね」と言っても、若い人には通じないだろう。冷たくツンとされるのが落ちかもしれない、ワサビだけに。

 それにしても、雪掻きをしてくれたり、ワサビを好むようになったり、息子も大人になったんだなあ。案外食事も「健康食」でいいのかも知れないなあ。では。

「黒部に怪我無し」なんだって

 昨日も、息子その2は録画しておいたお正月の特番をみて笑っていた。

 『世界の果てまでイッテQ!』という番組で、タレントのイモトアヤコさんが登山に挑戦していた。目標は黒部の秘境「下の廊下」。そこはかつて黒部ダムを建設するための調査路として、人一人がやっと通れるように切り開かれた、断崖絶壁にへばりつくような細い細い道。

 出発に当たり、なにかモチベーションが上がるような話を聞かせて欲しいというイモトさんに、ガイドさんは言った。

 「黒部に怪我無し」

 「へー」

 怪訝な顔をしながら、イモトさんは恐る恐るという感じで確認した。

 「それってひょっとして、落ちたら怪我どころじゃなくなる?」

 「そう、死ぬか生きるか」

 

 この場面をみていて、大昔、何かで知った「アイルランドに白髪無し」というフレーズを思い出した。「○○に○○無し」つながりと言うことで。

 19世紀、アイルランドはイギリスの支配下にあり、農民は非常に貧しい暮らしを余儀なくされていた。そこに「ジャガイモ飢饉」と呼ばれる大飢饉がおこり、考えられないほど多くの人命が失われることとなった。

 「アイルランドに白髪無し」とは、「アイルランドでは白髪になるまで生き延びることが出来ない」という意味だ。このフレーズがいつの時代に生まれたのか、ちゃんと調べてから記事を書こうと思ってネットにあたったが、頑張ってもヒットしなかった。検索ワードは、アイルランド、歴史、白髪、飢饉、貧困、短命、などなど。ネットを探っても見つからないとなると、本当にそのフレーズが存在するのかどうか自信が無くなってしまう。でも、まさか自分で勝手につくり出したとも思えないので、何かで読んだという記憶は正しかろうと思っている。読者の中に「聞いたことがある」という方がおいででしたら、コメントなど頂けると有り難い。

 

 拙ブログに何回か、「私は白髪頭だ」と書いたことがある。

 考えてみれば、白髪になっても元気に生活していられるということは、有り難くも幸せなことではないか。「黒部・下の廊下」を歩かなくとも、人生、一寸先は闇、行く手にどんな危険や苦難が待つか分からない。今日一日の無事を祈り感謝し、老化の道をゆっくり歩んでいきたい。これを書きながら改めてそう思った。では。

ショートショート7 『サタンの爪』

 久しぶりにショートショートを作りました。お付き合い下さい。

 

 サタンの爪  takakotakakosun 作

 

   深夜、Tはパソコンに向かっていた。Tはブロガーだ。明日アップする記事を書いているのだった。Tのブログは自身が若かった頃、即ち、昭和の懐かしネタを取り上げることが多かった。

 記事は着々と仕上がっていった。内容は、かつて聞いたジョークの紹介だった。そのジョークとは、暴走族が族名を壁にペンキで書いたが、「サタンの爪」と書くべきところを、漢字を間違えてしまい「サタンの瓜(うり)」と書いてしまったという、他愛無いが昭和では大変有名で大受けした話だった。

 Tは、ブログの最後はダジャレで締めることにしており、いよいよ最後のダジャレを書こうとしている時だった。部屋の壁に黒い影が現れたかと思うと、天井から不気味な声が降ってきた。

 「私はサタン。お前が今書いたサタンの爪の話。その話を許すわけにいかぬ。サタンの名が笑いと共に語られるなど、あってはならぬことなのだ。屈辱だ。

 近頃ではすっかり忘れられ安心しておったのに、蒸し返させるわけにはいかん。どうだ、取引をしよう。お前はそのネタを諦める。その代わりに永遠の命、これでどうだ」

 Tは即座に断った。永遠の命など何になろう。悲しい末路は見えている。「では」とサタンは言った。

 「金ならどうだ。宝くじ、宝くじを三枚やろう」

 宝くじ三枚とは気が利いている。一等に前後賞か。Tは承諾した。

 「よし、契約成立だ。この契約を破ったなら、お前の魂は私のものだ」

 サタンが言い終わるなり、Tの手の中には三枚の宝くじがあった。自分に舞い込んだ幸運が信じられずにいるTの耳に、サタンの言葉が続いた。

 「ふふふ、宝くじ三枚、ただし、当たりくじとは言っていないがな、はーはっは」

 笑い声の余韻が残った。

 「この悪魔!」

 Tは悟り叫んだ。そして、黒い影が消えた部屋でがっくりと肩を落とし、呟いた。

 「さすがはサタン。詰めはウリのように甘くはなかったか・・・」

                            終わり

二日から七日まで、全部季語

 昨日、拙ブログに仕事始めについての記事を書こうと思い、ネタ探しに歳時記を開いたところ、「仕事始」と「御用始・事務始」は別々の季語だと言うことを知りました。

 「御用始・事務始」は、官庁や銀行・会社などのいわゆる勤め人の、四日もしくは五日から始まる仕事に言うとあり、それに対して、「仕事始」は本来、様々な職人が正月初めて仕事のし始めの式をする行事に言ったのだそうです。

 更に。

 正月一日が「元日」として季語であるのは当然ですが、「正月」を略した二日から七日までも、全て新年の季語と定めたとありました。

 

 季語「四日」に、印象的な例句があったので紹介し、感想を添えたいと思います。

 

 妻独り海観(み)に行きし四日かな  本宮銑太郎 

 

 暮れから三が日までの大忙しの「主婦」の仕事が昨日で終わり、今日四日、「出かけて来ます」と外出した奥さんを詠んだ句ですね。

 私はこの句から、沸々と湧き出る怒りのオーラを感じました、勿論、奥さんの。奥さんは「長男の嫁」なのかな。年末年始、飲んで食べての男連中を横目に、座るまもなく働いたことでしょう。きっと口数も笑顔も、段々少なくなっていったことでしょう。

 「明日四日は、私、出かけて来ますから」

 「ああ。どこへ行くの?」

 「・・・、海でも観てきます」

 作者は奥さんが怒っているのは分かっています。そして、触らぬ神に祟りなしを決め込みました。いつもの手ですね。そして、俳句をものしたわけです。

 句には「奥さんが怒っているのは分かっている」のが如実に表れているように感じられるのですが、皆さんは如何でしょうか。

 作者はまさか自分の句から、「妻の怒りに気付かぬ振りをする、ずるい夫のやり口」を読まれるとは、想像もしないことでしょう。そう考えると、どこかおかしみもあるような気がしてきます。たった十七音で膨大な情報を伝えてくるところに俳句の面白さがありますね。

 また、俳句そのものからは大きく飛躍する想像なのですが、この句の奥さんにはお正月と言えども帰る実家が無い、あるいは遠方でおいそれとは帰れないのだろうと思います。実家に帰って愚痴をこぼすことも出来ず、独り海を眺めて自分で自分の気持ちをなだめるのだと想像します。

 家を出るときには「怒り」だった感情が「悲しみ」に変わって、玄関を開ける声はいつもの静かな「ただいま」に戻り、ずるい夫のいつも通りの「おかえり」の声に迎えられるのでしょう。かつてのヒット曲『ズルい女』なら、バイバイ有り難う~サ~ヨウナラ~ですが、現実はそうもいかないし。

 「を観に行く」のも「穏やかな一年のスタート」をきるための、生活の知恵なのでしょうね。こういう知恵を生み出すまでには、長い年月、それこそウミの苦しみもあったことでしょうね・・・。

 皆様、お正月、お疲れ様でした。では。

2021年1月4日、月曜日

 3日。帰省した夫と息子その1がそれぞれの場所に戻り、家は息子その2と私の二人となった。二人でテーブルに並んで座り、テレビに向かい合って夕食を食べた。

 息子その2はビールを飲みながら、録画の「笑ってはいけない」という趣旨の番組を、笑いながらみている。私も一緒にみてはいるが、息子ほど入り込めない。「菅野美穂、凄いねえ」と感想を言ったりするが、息子のように大笑いにはならない。年齢(とし)、なのだろう。

 テレビは賑やかだ。息子の笑い声もある。でも、なんだか家がシンとしている。人が二人いなくなると、こうも違うものか。

 

 今年は暦が悪く、4日が月曜日だ。「お正月気分も抜けないまま仕事モードに入るのは大変だなあ」なんて、無職の私は暢気に他人事だ。でも、そのお正月気分も、今年はどうなのだろう。

 新型コロナウイルスでスティホームを余儀なくされ、遊びにもでられず、人と会うことも制限されたお正月。私や夫はもともと出不精で、家に籠もるお正月はある意味例年通りなのだが、若い人達は可哀想だった。まあ、それでも酒飲みにとっては、ちょっといいお酒がガンガン飲めれば、それで立派なお正月なのだろう。四日、二日酔いでの出勤となってはいないだろうか。

 

 「御用始」「事務始」は、俳句では新年の季語だ。手持ちの歳時記で、次の句に懐かしい気持ちになった。

 

 司書若し和服に慣れず事務始   加倉井秋を

 

 若いOLさん達が振り袖で出勤する!そしてその日は和やかに挨拶を交わして、ハイおしまい。ああ、昭和の光景だ。もっとも、田舎住まいだった私にとってはそれは実体験ではなく、テレビの中の光景に過ぎない。それでもなんだか、「あった、あった」と過去を懐かしむ心持ちになった。

 

 去年という一年は新型コロナウイルスで激動・激変の世の中だったが、それが無くても、私がこれまで生きた過去60年の時代の変化は大きいなあと改めて思う。「時代を生きる」かつての若者も、いつの間にか時代に遅れた年寄りになった。そして、大きな変化は時代ばかりでは無く、己の姿形にも現れている。いつの間にこうなった。

 

 「私や夫はもともと出不精で」と書いたが、体型までデブ性とは。一月四日。事務始の次はダイエット始が必要かもしれない。では。

華麗とも言うべき「過冷却」目撃

 我が家の台所は二階なのですが、ガラスのドアをあけるとベランダがありまして、ゴミ置き場になっています。また、「北国あるある」だと思うのですが、冬は天然の冷蔵庫としても活用しています。

 元日の夜のことでした。

 ベランダに置いてあった2リットルペットボトルのお茶をコップに注いだ息子その2が、「お、おお、おおー」と素っ頓狂な声をあげ、続けて「過冷却過冷却!」と叫びました。確かに液体の「綾鷹」が、コップに注がれた途端たちまち凍ったのでした。たまたま、私と息子その1も台所にいたので、コップを見つめて「わー」となりました。

 「ひょっとして、このペットボトル全部いくんじゃね?」

そう言って、まだたっぷりと中身の入ったペットボトルを息子その1がキッチンカウンターにドンッと打ちつけたところ、果たして、「綾鷹」は上からジワジワと凍っていったのでした。

 三人で「凄い凄い!」と興奮して叫び続け、1本まるまる凍り付いてしまった頃、「何だ?何だ?」と夫が台所へやって来ました。あー、残念。夫が目にしたのはただの凍った「綾鷹」でした。夫がやってくるのが遅かったのは、これは加齢脚というものでしょうか。

 それにしても、現代の私達は「過冷却」という科学的知識があるため、驚きつつも目の前の出来事を「物理現象」の一つとしてあっさり受け入れますが、昔の人はどうだったのでしょう。きっと、何か神仏の力のようなものが働いた神秘的な現象と考えたのではないでしょうか。特に元日の夜の出来事ともなれば、「霊験あやたか」と感じ入ったかと想像します。

 新年早々面白いものが見られ、幸先のいいスタートが切れました。面白いこと、新しい知識、そういうものにたくさん出会えたら幸せです。そして、そういったことをブログで紹介出来る一年になればいいなあと思います。では。

家族揃って夜更かし

 昨夜、家族揃って『月曜から夜ふかし』というテレビ番組をみました。司会は関ジャニ∞村上信五マツコ・デラックス

 

 息子その2息子その1に笑いながら、次のような話を教えていました。

 

 俺が昔バイトしてた時の話なんだけどさ。

 そこのマスターがこの『月曜から夜ふかし』が大好きで。毎週月曜日、「今日、マツコの部屋だな」って言って、バイトに「月曜から夜ふかし、ですよ」って言われるんだけど、毎週言うんだよね。「マツコの部屋だな」って。

 でさ、前に帰省してきた時なんだけど、お父さんも言ってたんだよ、「マツコの部屋」って。

 

 爆笑する二人でしたが、その笑いの中には「しょうがねえなあ、年寄りは」という、ちょっとブラックな成分も含まれているように感じました。

 物覚えが悪かったり、間違って覚えたことが上書き出来なかったりは、年寄りの日常茶飯事です。でも若い人には理解不能で、その分ちょっと面白い「年寄りあるある」なのでしょう。

 息子その2の話を笑って聞きながら、私の胸中は複雑なものがありました。その思いをその場で言うべきかどうか、迷いました。

 「お母さんはね、『マツコの知らない世界』を良くみてるんだけど、つい「マツコの部屋」って言っちゃうんだよね」

 結局、黙っておくことにしました。が、こうしてブログに書くことにし、早速書きました。

 書くなら、マツの内にしようと思ってさ。では。