おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

書きたいことを書く!(でも読まれたい)

今週のお題「ブログ初心者に贈る言葉

 

 大相撲初場所が始まりましたね。昨年は何かと角界の不祥事が世間に出てしまいましたが、それは、理事長がはっかく理事長だから!

chokoreitodaisuki.hatenablog.com

 

 ああ、懐かしい。この「はっかく」ネタは、上に貼った私の「はてなブログ」デビューダジャレなのです。私はダジャレを世界に発信したいがためにブログを始めたのです。そんな動機でも、8ヶ月以上継続し、200以上のダジャレを発信できている!

 

 「内容のあるもの」とか「楽しんで頂けるもの」とか。気負わず、かっこつけず、自分の書きたいことを書けば、いいんじゃないかなと思います。一番大事なことは、自信をもつこと。「私のブログは私にしか作れない」のですから。

 特に、寒い季節にブログを始めるのはおすすめです。平常心で出来るから。だって、

きんちょうの夏って言うでしょ。(これは高校時代の同級生の名作のパクリ)

 ブログは日記のようなものですが、続けるうちにはネタ切れで、にっきもさっちもいかなくなるときがあります。そんな時には休みましょう。その内には何かネタが、大ありー、小なり、見つかるものです。

 せっかく始めてみようと思ったブログです。まずは自分のために、自分が楽しんで続けてみましょう。読んでくれる方は意外にいるものです。

 あと、他の人のブログを読むのも何かと参考になるかと思います。私のブログなんか、おすすめですよ。(こういう押しの強さも大事です。ただ、押してだめなら、引かれてしまいますが・・・。注意が必要です)

 ブロガーの皆さん、お互いに楽しく頑張りましょうね。では。

 

「100万円欲しい人、この指とまれ」って(呆)

 遅ればせながら、ZOZOTOWN前澤社長の1億円ばらまきについて、思うところを書きたいと思います。

 本当にイヤな話だと思いました。理由は大きく二つです。

 

 その1

 「誰も損するわけではない」とか「ツィッターをフォローするだけで当たったら、超お得じゃん」」といったフレーズをインターネット界隈で目にしました。

 その、「損」とか「得」といった考え方がそもそも嫌いなの!

 私は子供の頃、昭和一桁生まれの親や、あるいは学校教育(道徳の授業とか)、そして、たくさんの本から、「損・得」で動くのは恥ずかしいことだと教わりました。「損・得」を判断基準とすることは、「欲得ずく」=打算的という卑しい心根とされていたのです、昔は。

 では、私に「欲」はないのか?大ありですとも。欲望の塊です。

 だからこそ、なのです。私が子供時代に教わったり学んだりしてきたことは、所詮「きれい事」です。でも、「きれい事」こそ、人が掲げるべき「理念」でしょう。私を含めて「欲」の虜となってしまいがちな人間が、「欲」よりも大切な何かのために、「欲」に打ち勝つために、「損・得」で動くのは人間として恥ずかしいことだと、幼い頃から教える必要があるのです。「欲」に負けないということが、不自然なことであるからこそ、「教える」のです。

 そして、人間は弱いもでもあります。目の前に美味しそうな「餌」を吊されれば、よだれを垂らして走ってしまうものです。そんな人間の習性を熟知して、「餌」を吊すのは、なんて罪なことだろうと思いました。不快です。

 

 その2

 この「ばらまき」の話題から連想したのは、江戸時代の紀伊国屋文左衛門という豪商の逸話です。雪見酒を楽しむ金持ちの邪魔をするために、雪の上に小判をばらまいて、使用人・女中・太鼓持ちなどに雪を蹴散らして拾わせたとか、節分には豆の代わりにやっぱり小判をまいて、欲に駆られた人々が我先にと争うのを見物して楽しんだとか。

 こういうのを「お大尽遊び」というそうですが、お大尽という人種の最大の勘違いは、他人を自分の楽しみのためのコマとして扱うことに罪悪感がないということです。他人の浅ましい姿を見て、笑う。しかも、浅ましくなるように自分が仕向けて。浅ましいのはお前だよ、と思うのです。

 もう一つ、想像した姿があります。

 小学校の教室です。友達のいないボンボンが、大人気のゲームソフトを5本、机に並べて叫びます。「このソフト欲しい人、この指と~まれ。あ、待って。みんな、欲しいの?じゃあねえ、なにか芸をやって、僕を笑わせた人、5人にあげま~す」

 

 このボンボンの姿に何を感じますか?そして、その1で書いたことに通ずるのですが、もし自分の子供がそのソフト欲しさに一生懸命芸をやっているとしたら、その姿を想像したらどうでしょうか、これはダジャレどころでは無く、ほんとにゾゾ-っとする話だと思うのです。新年早々、本当に不愉快な話題で、少し頭を冷やしてから書こうと思ったのですが、書いているうちにやっぱり熱くなってしまいました。ご容赦。

「押し買い」にご用心

 先日、所用で休みを取りまして家におりましたところ、電話が鳴りました。

 

 「こちら〇〇と申します。不要なお履き物がありましたら、一足からで結構ですのでお買い取りさせて頂きたいと思いまして。踵が痛んでいるとか、底が剥がれているとか、どんな状態でも結構です。こちらで修理して発展途上国の方に送って使って頂きます」

 「残念ですが、履けない物は全部捨ててしまって、ありません」

 「下駄・草履なんかでも宜しいです。あと、食器、大皿とかございませんか?あるいは着物・帯など、古着でも結構です。一枚から買い取りさせて頂きます。皆さん今日の夕食代になったわ、とか大変喜んで下さいます。」

 

 結果的にはお断りをして電話を切ったのですが、ちょっと気になったので、『電話 訪問 履き物』みたいな感じでネット検索してみました。そうしましたら、実に簡単にヒットしまして、こういうのを『押し買い』というのだそうです。

 

 なんでもいいというのは、家に上がり込むための口実で、狙いは「貴金属」なのだそうです。売るつもりの無かった貴金属を言葉巧みに出させ、相場よりも安く買いたたくわけです。まさに「押し買い」です。この手法の優れている(?)ところは、

 ・「発展途上国に寄付」という善意につけ込むワード

 ・草履や着物を持っているのは、ある程度裕福な高齢者で、高確率で貴金属を所有している

 ・勧誘電話の長い話に付き合うのは一人で在宅している可能性が高い

 ・食器や着物を査定するには広げて見なければならない、と言って上がり込みやすい

 ・人は他人を家に入れてしまうと断りにくくなってしまう。まして一人だと恐怖心から相手の言うがままになってしまう

 

 簡単に言うと、詐欺みたいな物な訳です。恐ろしいですね。昔は「男は一歩外に出れば七人の敵がいる」なんてことを言いましたが、現代では男女を問わず、「家にいても敵が来る」時代なのです。おのおの方、ご油断召さるな!

 

 皆さん既にご存知のことだったかも知れませんが、おしっかいおばさんしてみました。転ばぬ先の杖です。では。

私は「同性婚」の関係者か部外者か

はてなおすすめ記事で、こちらのブログを読ませて頂きました。

chikirin.hatenablog.com

 

 迷惑な人の5番目として、「自分は関係ないのに反対する人」というのがありました。

 具体例としては、同性婚夫婦別姓飛び級尊厳死があげられ、これらに反対する人は世の中の進歩を妨げる人だと、一刀両断されています。

 

 先ずは同性婚について、私の思うところを述べたいと思います。

 私たち夫婦に二人の息子、AとBがいるとします。夫と私が同時に、千円の遺産を残して昇天したとします。AとBは500円ずつ相続します。翌日、Aが妻子を残し、昇天します。500円は妻子に相続されます。全く問題無しです。子供がおらず、全額残された妻が相続した場合も特に何も感じないと思います(あの世からの感想になりますが)。異性婚であっても、必ずしも子を持つとは限らないといういうことぐらい、わかっています。ただ、可能性はゼロではありません。この、可能性はゼロでは無いということが大事だと思います。なぜなら、先のことはわからないのが人生であり、結婚に限らず、あらゆる場面で人は可能性というものにすがって生きていくと思うからです。

 では、Aが同性婚の配偶者を残した場合はどうでしょうか。私たち夫婦が残した500円はAの配偶者aと養子に相続され、aが昇天後は、養子または養子がいない場合は、aの親族へと渡ることになります。

 

 率直に言えば、納得できない。なぜ私と夫が遺した500円を赤の他人にやらなければならないの。Aが一人っ子だったならどうでもいいけれど、Bがいる!私たちから渡り、Aが遺した500円はBにやりたい!

 

 結婚とはつまるところ、「相続」の権利を保障する契約だと思うんですよね。「血のつながり」とは不思議なもので、例えば私の叔母曰く、「赤の他人には一銭もやりたくない。娘にもやりたくない。でも息子には全部やりたい」だそうで、気持ちはわからなくもないです。

 同性婚が求めるものは、当然異性婚と同じ権利でしょうから、この相続の問題に私自身が理性的に納得できるまで、私としては「賛成は出来ない」という立場になってしまうのです。

 

 さて、最初にご紹介したブログについて書きたかったことの、本題に入りたいと思います。

 私がひっかかったのは、「関係ないのに」の部分です。例えば、友人の退職金の使い途とか、息子のヘアスタイルとか、「私」に関することについては「関係ないヤツは黙ってろ」だと思います。でも、ブログ主さんがあげた四つの例は「公」の問題ですよね。沖縄の米軍基地問題とか、青森県の核燃料施設について、他県のヤツは関係ないとは誰も思わないでしょう?同じことではないでしょうか。

 

 既に異性婚してしまっている私は「同性婚に関係ない人」なの?意見を言ってはいけないの?(いけないと言われても言うんだけどさ)「関係のある・無し」は、どういう基準で決まるというの?

 

 どうしても書かずにはいられませんでした。そして、書いていて、つくづく「年をとったなあ」と思いました。

 「思います」とか「なの?」とか、文末がどうにも情けない。昔の私は違っていたと思います。自分の考えは正しいと「無知ゆえの自信」にあふれていたので、物事はつねに言い切っていました。時には「ねばならない」とまで断言したり。年をとって少しは成長したので、「自分が正しい」とは限らないということがわかったというのもあります。でも、一番の理由は「世の中から遅れている」という自覚が、自信を喪失させているからだと思います。

 でも、だからこそ、他の人のブログやニュースを読んで「自分の意見」を言うべきだとも思うのです。間違っていたり、浅薄だった場合、親切な誰かがコメントやブクマでご指摘して下さるかも知れませんから。黙ったまま、自分の中で間違いを温め続けるより、ずっといいです。なんたって、刺激になりますもの。

 どうせい、ブログをやるなら、賛否両論があるような、そんな記事も書いていきたいと、新年にあたり思うのでした。でも、「否」よりは「賛」に対してうれしさが隠せないというのが、ホントのところです。おばあさん、の習性ですね。

 

モノマネの面白さについて考えた

 どうも~、モノマネのクオリティーの低さに定評のある私でーす。

 

 皆さんはモノマネはお好きですか。私は見るのもするのも大好きです。お正月の「モノマネ」のテレビ番組を見ながら、モノマネの面白さとは何か、前々から疑問に思っていたことを改めて考えてみました。

 答えは、「よくわからない」のです。大抵のことは、正しいにしろ間違っているにしろ、何かしらの答えはひねり出す私なのですが、この疑問の答えはなかなか出ないのです。でも、テレビ番組があるぐらいなのですから、モネマネを面白いと感じるのは多くの人に共通した、人間の本能に根ざした何かがあってのことだと思うんです。

 

 「学ぶことはまねること」という言葉がありますが、人間にとって生きていく上で欠かせない「学習」とは、「まねる」ことから始まります。今から20年以上も前、育児書で読んだ忘れられない一節があります。それは、「離乳食はいつ頃から始めたら良いか」という質問に対する解答でした。

 

 「大人が食べているのをみて、赤ちゃんがモグモグと口を動かして、食べたそうな様子が見られたら始めましょう」

 驚きました。生後5,6ヶ月の赤ちゃんが大人の様子をまねるなんて!「人間」の学ぶ能力って凄いです。

 

 人間は大きく二種類に分けられます。「モノマネ」を人前でやりたい人とやりたくない人です。私は勿論、前者です。モノマネレパートリ-も結構あるのですが、一番自信があるのは「目玉オヤジ」で、台詞は「キタロー、茶碗風呂の用意じゃ」です。

 この、やりたいかやりたくないかは、各自の性格によるところが大きいと思うのですが、上手なモノマネに感心したり笑ったりするのは、ほとんどの人の自然な反応です。感心するのはテクニックに対する賞賛だと思うのですが、笑ってしまうのはなぜなのか、正体がつかめません。皆さんはどのように思われますか。

 

 話は飛びますが、今日、同僚と話をしていて、「刺激を受けなければ、自分が停滞してしまう」という結論に至ったんです。特に難しい話をしていたわけではなく、ちょっとした世間話から思わぬ方向に話が広がった結果です。

 「刺激を受ける」ためには、ボーッと待っていてはだめ。自分で何かを学ぶ姿勢を持たなくちゃ、というところまで話はすすみました。

 学ぶ=まねる、お手本を見つけて頑張らなくっちゃと思いました。そして、モノマネを人前でやりたい性格とは、もしかしたら学習意欲が高いということかも、と都合良く解釈したりして。

 どうです?これをお読みのモノマネ好きのあなたも、なんだか元気が出てきたろー。がんばりましょうね。

 

 

「オーナーシップ」って、いつ頃出現した言葉です?

 昨日の記事では息子その2から教えてもらったことを書いたので、今日は息子その1の出番です。(公平にしないとね)

 しばらく前ですが、息子その1の口から「オーナーシップ」という言葉が出まして。初めて聞く言葉で、ビックリしました。「リーダーシップ」という言葉は昔からありましたけど・・・。聞いたことあります?

 

『人事労務用語辞典』によりますと、

「オーナーシップ」とは、個人と組織、個人と仕事との関係を示す概念で、担当する仕事を「自分自身の課題」と主体的に捉え、強い情熱と責任感を持って取り組む姿勢のこと。与えられた職務やミッションに対する自発性、経営に対する当事者意識、参画意識などがオーナーシップを形成する要素です。

 

 なるほどね。「指示待ち人間」の反対みたいな概念なわけね。学校なんかでも、最近は「アクティブ・ラーニング」とか「グループ・ワーク」とか、自発性や参画意識を育てる流れがあるみたいで、つまりは、「オーナーシップを持った人材」を求める、「世の中の流れ」に対応しているわけね。

 息子その1は、非常に「我」の強い性分なので、「オーナーシップ」は十分あると思うのですが、「シップ」だけでは仕事はできないと思うので、頑張って研鑽を積んでいって欲しいと思います。

 

 さて、ちょうど、この「オーナーシップ」についての記事を書こうと思っていたら、

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

一年前の話題の記事として、こちらが紹介されていて、読ませて頂きました。

 

 ”出しゃばらず、言われた仕事はきっちりこなし、上司やパートナーの采配次第では抜群の仕事をやってのける人材が、自主性を求められる状況に直面し、困惑して、メンタルヘルスを損ねて来院する……というパターンは精神科では珍しくないものだった。”

 

 こちらのブログ主さんは、オーナーシップのあるような人は勿論、ご自身のブログに書かれたような「自主性が乏しいけれども仕事が優れている人」も評価されるような、そういう社会こそが「多様性のある社会」ではないかとおっしゃっています。その通りだと思います。「多様性」と言うからには、いろいろなタイプの人が活躍できてこそです。では、なぜ今日では、「自主性の乏しさが罪」になってしまうのでしょうか。私が考えたその理由を、非常に卑近な例をあげて述べたいと思います。

 

 理由の一つ目は、社会に「余裕」がなくなっていること。

 パートナー(夫)に家事を手伝って欲しいとします。(我が家では、家事は私が担当。夫はあくまで”手伝う”というポジションです)。夫は「妻の采配次第では抜群の家事をやってのける人材」です。私に心の余裕があるときは「クイックル、かけて」とか「食洗機、お願い」といちいち采配を振るい、夫は見事に期待に応えてくれます。では、私に心の余裕が微塵もないときはどうでしょうか。私の心の声をお聞き下さい。

 「はあ?私がこんなにてんてこ舞いなのに、何、一人でテレビ見て笑ってんの?言われなきゃ、何一つ手伝わないわけ?結構です。言われなきゃやらないような人に、手伝ってもらいたくなんかありません!自分でやった方が早いです」

 采配次第では、と一口に言いますが、采配を振るうのも労力です。その分の余裕が無くては難しいのです。職場はどこもきっとギリギリの人数で回していて、昭和の頃のような時間の余裕も気持ちの余裕もないのでしょう。グローバル化の世の中の厳しさですね。

 理由の二つ目は、機械化がすすんでいること。

 パートナー(夫)に洗濯をお願いするとします。ただ「洗濯、お願い」と言っただけでは、すべての汚れ物を洗濯機に放り込んでスイッチ・オンは目に見えています。

 そうじゃなくて、息子のジーンズは色落ちするから、後で。あなたが丸めて脱いだ靴下は伸ばして。私のタイツはネットに入れて。って、こんな指示をいちいちするぐらいなら、自分でした方がずっといいです。つまり、洗濯機が洗濯をしてくれる今日では、大事なのは洗濯物の仕分けに取り組む「情熱」「責任感」「知識」といった、オーナーシップに属する部分であり、仕分けがすめば後は機械がやってくれるのです。

 采配を振るうのが人間の仕事だとすれば、それ以外の仕事は機械に取って代わられるか、「単価の安い仕事」として割り振られるようになるのだと思います。

 

 書いていて、本当に恐ろしい時代になったものだと思いました。また、逆に、うちの息子その1のような、「協調性」を求められるような場が苦手な者にとっては、歓迎すべき風潮なのかも知れないとも思ってみたり。

 一ついえるのは、良くも悪くも「同僚」は職場環境の一つなのですから、ギスギスした関係であるよりは「良い関係」であった方が絶対にいいに決まっています。

 人間関係は最大のストレス要因です。同僚との軋轢によるストレス性の頭痛に悩んでシップを貼るより、「パートナー・シップ」というものについて一考してみるのもいいかも知れません。よりよい職場の人間関係を築く足がかりとなるかも知れません。

 私も夫への采配のふるい方について、少し考えてみたいと思います。なんたって、采配次第では「出来る男」なのですから。ホントですとも。

 

 

今更ですが、2016年話題沸騰、「石田三成CM」

 お正月で帰省してきた息子その2から教えてもらいました。当時は大いに話題になったCMらしいのですが、全く知りませんでした。不覚!

 私同様ご存じなかった方は、とにかくご覧ください。

 【第一弾】

www.youtube.com

【第二弾】

www.youtube.com

 そしてこの石田三成CMは見事、全日本CM放送連盟による、

2016 ACC CM FESTIVAL ACC ゴ-ルドという、非常に権威ある賞を受賞したのです。 

  なんといいますか、クセになる面白さですな。その面白さの正体について、ちょっと考えてみました。

 

 一言で言うと、「わかる」ということの面白さだと思うのです。

 石田三成CMは、いつかどこかで見たような、それも、昭和感満載のCMのパロディーという感じがします。具体的にどのCMということは無くても、「あったなあ、こんな感じのCM」という、制作者が狙っているパロディー元がわかる気がするのです。「飲み込めた感」があるのです。

 また、太閤検地と言った知識とか、あるいは「※故人の感想です」といったボケとかを知っている・理解できるというのは、例えて言うならクイズ番組で正解した時のような、「わかった」という喜びに通ずるものもあると思うのです。

 いずれにしろ、「わかる」「正解する」って、うれしさと面白さがありますよね。

 

 勉強も同じですね。「わかる」喜びがあればこそ、学ぶことが楽しくなり、興味も広がるのだと思います。誰だって、苦手教科は嫌い、あるいは面白くはないですもの。

 南の方では新学期も始まったようですね。青森県では来週の月曜日から始まる学校がほとんどかと思われます。小さいうちから勉強に躓いて「勉強嫌い」にならないよう、特に小学校低学年時代は大切です。頑張って欲しいです。

 

 なんたって、勉強の基本は「読み、書き、算盤(計算)」のみっつなり!なのですから。